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歴史万華鏡コラム 2026年08月号

高知市広報「あかるいまち」より
板垣退助先生誕生之地碑
本町二丁目にある高野寺に「板垣退助先生誕生之の地碑」が立つ。
今から189年前の天保8(1837)年、板垣は乾正成の長男としてこの地で生まれた。
そして今から163年前の文久3(1863)年夏、中岡慎太郎が板垣(当時は「乾」だが便宜上「板垣」と表記する)を訪問している。藩内の状況についてじっくり議論した二人は意気投合し、帰り際、慎太郎は、「これまで(板垣を)俗論家と思っていたがそれは誤りであった。これからは同志として深い友情を結ぶであろう」と言ったと『板垣退助君傳記』などの本に書かれている。
板垣と慎太郎が面会したことは土佐藩庁もつかんでいて、土佐勤王党の中から「反覆」する者が出てきたようだと推測している(「国許書状」文久3年5月11日付〈「土佐藩京都藩邸史料」高知県立坂本龍馬記念館蔵〉)。
初対面から4年後の慶応3(1867)年5月21日、慎太郎の仲介で、板垣は西郷隆盛らと京都で会談し、薩摩が挙兵すれば直ちに兵を率いて合流することを約束した。世にいう「薩土討幕の密約」である。これは薩土盟約(同年6月22日)と異なり盟約書を交わすことはなかったが、薩土両藩の軍事面を担う代表者が「倒幕」路線で合意したことが重要である。密約の話が慎太郎から木戸孝允にも伝わっていたことは、木戸が同年9月4日付で坂本龍馬に送った手紙に、板垣と西郷との連携が倒幕の肝であると書いていることからうかがわれる。
「薩土討幕の密約」は文書を交わさなかったため、口約束レベルとみなされ、軽視されがちである。しかし戊辰戦争が始まると、板垣は西郷との約束通り、自ら作った西洋式軍隊である迅衝隊を率いて薩長両藩と合流し、大きな戦果を挙げている。
慎太郎がつないだ板垣と西郷との縁、そして板垣の戊辰戦争での戦果は、明治政府内で土佐藩が強い発言力を持つ一助となった。この史跡はまさに歴史を動かした舞台の一つである。
中岡慎太郎館 副参事・学芸員 豊田 満広
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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。




