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歴史万華鏡コラム 2026年06月号

高知市広報「あかるいまち」より
龍馬の1度目の脱藩が赦された証
龍馬は、数え年33歳という若さで生涯を閉じたが、その短い人生の中で2度、脱藩をした。1度目は文久2(1862)年、龍馬を語る上で欠かすことのできないエピソードがこの時の脱藩である。2度目は文久3(1863)年、土佐藩からの帰藩命令に応じず、再び脱藩者の身となったことを指す。脱藩に対する処遇は藩によって差があり、土佐藩の場合は非常に重い罪に問われたとされているが、時期や立場などによって罪の軽重には差があったようで、龍馬には緩やかな罰則が適用されたという。
写真の資料は、明治11(1878)年に刊行された、勝安芳編著『亡友帖』。編著者の勝安芳とは勝海舟のことである。西南戦争での西郷隆盛の死をきっかけに勝が亡き友の書画を集め、まとめたもので、完成後は諸人に配布された。当資料には、勝が生前親しく交流していた人々の書画が収められており、その中に龍馬の一度目の脱藩が赦された証とされている、山内容堂書「白扇の瓢箪」が掲載されている。
この書に関する逸話をご紹介する。文久2年12月、龍馬は勝を訪ね、弟子入りをしたとされる。翌月、勝は福井藩前藩主・松平春嶽一行を京へ送り、江戸帰府のために幕府保有の蒸気船「順動丸」で下田に入港。偶然にもそこには嵐のために停泊していた土佐藩前藩主・山内容堂がいたという。容堂と面会の機会を得た勝は、土佐を脱藩した門下生たちの脱藩罪赦免を請い、大盃の酒を飲み干すという条件を提された。勝は下戸だったが酒を飲み干し、それを見た容堂は大いに笑い、「彼らの身は君に一任する」と約束したという。その際、約束を反故にされることを恐れた勝は証拠となるものを求め、容堂がその場で扇面に書を書き、これを勝に与えたとされる。この逸話からは、勝の門下生に対する面倒見の良さと大酒飲みであった容堂の豪快さと度量がうかがえる。
当館は龍馬の誕生地・上町に立つ施設で、龍馬の誕生から1度目の脱藩までの資料やエピソードをご紹介している。現在、当資料も展示中。ぜひ、ご覧ください。
高知市立龍馬の生まれたまち記念館 学芸員 檜垣 佳甫
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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。




