本文
歴史万華鏡コラム 2026年04月号

高知市広報「あかるいまち」より
野中婉女宅跡
朝倉神社南方の山麓、字多 宝院に野中婉女宅址碑が立つ。野中兼山の四女・婉がこの地でで孤高の晩節を全うしたことを後世に伝えようと、大正15(1926)年に朝倉婦人会が建立したものだ。郷土史家寺石正路の撰文には、柳陰亭と号した婉を偲び婦人会が柳樹を植樹したと記されている。
奉行職として土佐藩の確立に奔走した野中兼山は、寛文3(1663)年、政敵の弾劾により30年にわたる政権の座を追われ急逝する。翌年、父の追罰により、わずか4歳の婉をはじめ子女8人とその母らは宿毛へ配流、以後四十年を竹矢来の獄舎に幽閉された。門外一歩を禁じられた遺族が赦免となるのは、元禄16(1703)年、最後の男子貞四郎の自害によってである。婉は44歳になっていた。
大原富枝文学館には野中婉の書簡20通の写しが保管されている。昭和19(1944)年に大原富枝が県立図書館で筆写したものだ。婉は谷秦山への返信に「八十路あまりの老人弐人つれ朝倉とやらんへ先ず参可申心組二御座候」と書き、赦免後も宿毛に安住する異腹の姉妹に対して、81歳の母と乳母を連れ朝倉へ帰る道を選んだ。亡父兼山はじめ野中家累代の祖廟を建立するという、末弟貞四郎の遺志を果たすためであった。
医を生業に身を立て、赦免から5年となる宝永5(1708)年、山田野路村(現土佐山田町)に念願の祖廟、野中神社(お婉堂)を竣工するのである。昭和34(1959)年の春、大原富枝は婉の取材に朝倉を訪れる。旧居は山際を山吹の生垣に囲まれ、裏山から流れ落ちる清水がせせらぎの音を立てて流れていたという。旧村役場で出土品の懐中鏡を目にし、簡素な柳の模様を認め婉の生涯に思いをはせた。同年12月、大原は「婉という女」260枚を脱稿する。
旧居横の電柱には高知県女医会が標識を掲げ、「婉の会」が跡地に懇切な案内板を設置している。
春、野中婉女宅跡を、青柳が柔らかに揺れていることだろう。
本山町立大原富枝文学館 学芸員 大石 美香
広報「あかるいまち」 Web版トップ > 歴史万華鏡コラム もくじ
※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。




