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歴史万華鏡コラム 2026年03月号

高知市広報「あかるいまち」より
全国に広がった技と志
生誕200年・吉井源太の歩み
「土佐紙業界の恩人」といわれる吉井源太は、伊野村(現いの町)に生まれ、ことしの3月で生誕200年を迎える。源太は80年余りの生涯を伊野で過ごし、高知県のみならず、全国の和紙産業発展のために生涯をささげた。明治維新を境に時代が大きく動く中、和紙を取り巻く環境の変化に向き合い、懸命に奔走していた様子は、残された日記からもうかがえる。
源太の最初の大きな功績は紙漉き道具の改良である。安政5(1858)年に江戸へ赴いた源太は紙の消費量を調査し、その多さに驚いた。「今の漉き方では需要に応じられない。品質を損ねることなしに今までの2倍、3倍の紙を漉けないか」と考え、2年後、「土佐の大桁」と呼ばれる紙漉き道具を完成させた。こうして生まれた「土佐の大桁」は、明治以降に源太らが開発した新しい紙が国内外で大量に求められる中、その需要に応える大きな力となり、紙業王国・土佐の礎を築いた。
また源太は、開発した道具や技術を独占せず、全国の産地に紙漉き技術やその改良法を積極的に伝え広めた。この行動に地元では「自分たちを不利にするのではないか」という声もあった。
しかし源太の日記には「万民の扶助」「日本の国益」「アジアの名誉」といった言葉が記されており、我が国の和紙製造業の発展、そしてその姿を世界に示すことを重視していたことがうかがえる。
源太のこうした姿勢と功績は、後の時代の研究者たちにも大きな関心をもって受け止められた。昭和を代表する和紙研究者・寿岳文章は昭和初期、全国の産地を訪ね歩いた。昭和14(1939)年に吉井家を訪れた際には、「日本国中の紙漉き場を行脚して最も深く感じたのは吉井源太翁の影響であった。東北の山奥でも翁(源太)の写真を示す人がいた」と書いた色紙を贈っている。源太や伊野の職人たちが各地に与えた影響の大きさの一端がうかがえる。
源太が残した技術と志は、伊野から全国へと広がり、時代を超えて受け継がれてきた。我が国の和紙産業の発展に寄与したその功績は、今も和紙作りの現場に確かな影響を残している。
いの町紙の博物館 学芸員 田邊 翔
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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。




