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歴史情報 伊達兵部宗勝墓
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伊達兵部宗勝
「伊達兵部宗勝(だてひょうぶむねかつ)は,伊達政宗(だてまさむね)の十男であり,現岩手県にあった一関藩の初代藩主です。元和7年(1621)に誕生,延宝7年(1679)に亡くなりました。
なぜ,岩手県から遠く離れた高知に,伊達兵部宗勝のお墓があるのでしょうか。
その理由は,「伊達騒動」と呼ばれる御家騒動にあります。
伊達騒動と土佐藩
伊達騒動は,万治3年(1660)7月,仙台藩3代藩主伊達綱宗が素行不良や病気を理由に謹慎を命じられたことに始まる,伊達家で生じた権力争いのことです。綱宗に次いで家督を相続したのは,綱宗の子,亀千代(後の伊達綱村)でした。しかし,亀千代は当時2歳。そのため,政務を執らせるのは不可能でした。
そこで,幕府によって藩政の後見人に命じられたうちの一人が,伊達兵部宗勝でした。兵部は,伊達六十二万石のうち三万石の領地を分け与えられ,一関藩を立てました。兵部は原田甲斐宗輔らと結んで内政を固め,一門以下の反対勢力を抑えました。兵部らの後見政治によって処罰された人数は,寛文11年(1671)までに120人,うち斬罪・切腹は17人とされています。一門の伊達安芸宗重は,兵部らの非違を幕府に訴えます。寛文11年,幕府は伊達騒動を裁きましたが,甲斐は安芸を斬殺しました。
兵部は,甲斐が起こした斬殺事件を機に,騒動の責任を問われる形で,土佐藩主山内家預けとなりました。そして,延宝7年に病で生涯を終えるまで,土佐藩で過ごすことになります。
兵部は,丹中山で火葬された後,高知市五台山に埋葬されました。そのお墓が現在,高知市指定史跡として指定されています。