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歴史万華鏡コラム 2022年03月号

歴史万華鏡
高知市広報「あかるいまち」より

高知城と長崎蔵

3月号写真
●杉ノ段に残る井戸から長崎蔵のあった方向をのぞむ

土佐藩の紙業関係の文献にあたっていると、しばしば「長崎蔵」という言葉を目にする。一見して、誰もがこう思うだろう。現在の長崎県にあった蔵なのだろうか、と。しかし、江戸時代の長崎のことを調べても、現地に土佐藩の蔵などあった気配がない。それもそのはず、長崎蔵は、高知城内に設けられた蔵だったのである。

土佐の七色紙(なないろがみ)の伝説は有名である。江戸時代、土佐藩は、七色紙をはじめ領内で生産される紙を御蔵紙(おくらがみ)として納めさせた。藩の蔵に入る紙だから、御蔵紙である。逆に言えば、当時の土佐藩には、徴した紙を収めるための「御蔵」がなければならない。

長崎蔵は現存しない。すでに城郭としての役割を終えていた明治時代のはじめ、高知城内を公園として整備するために取り壊された。この公園化にあたって、在りし日の記録のため城内の実測図が作成された。明治6年作成の「高知城の図」と題する図面(高知市立市民図書館所蔵)には、追手門から北西へ進んだ「杉ノ段」の北の一角に「長崎倉」が描かれている。

気になるのは、名前の由来である。高知城内にあった蔵が、なぜ長崎蔵なのだろうか。その答えは、やはり九州の長崎との関係にあった。郷土史の大家平尾道雄氏は、この蔵の正体について次のように説明する(『土佐藩商業経済史』)。江戸時代のはじめ、土佐藩は、貿易港長崎に入ってくる舶来品を仕入れて商活動をおこなっていた。そのうち、藩主山内家が所有する目的で得た品物を貯蔵するため、高知城内に蔵を設けた。これが長崎蔵である。蔵の内部は奥と口とに分かれ、奥には藩主一族の嗜好(しこう)品、そして口(手前)には紙筆類が収められた。長崎貿易廃止後も長崎蔵は存続し、紙筆類の貯蔵庫としての性格も引き継がれた。

このような事情により、長崎蔵は土佐藩の紙業の歴史と密接に関係するのである。土佐和紙の輝かしい歴史の一齣(こま)とみるか、それとも抑圧された紙漉(す)きの苦難の跡とみるか、その評価はともかく、長崎蔵こそ土佐藩の紙制度を象徴する建造物であった。城内の形なき遺跡を前にして、往時の威光を偲(しの)ばずにはいられない。

高知県立坂本龍馬記念館 学芸員 高山 嘉明

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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。