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歴史万華鏡コラム 2021年11月号

歴史万華鏡
高知市広報「あかるいまち」より

藤並の森と野中兼山

11月号写真
●お堀の外側にある野中邸の跡

令和2(2020)年4月、高知こどもの図書館は高知県立公文書館の1階に移転した。

高知県立文学館とともに、この辺りは藤並の森と呼ばれているが、これはこの場所に藤並神社があったことに由来する。緑陰将棋のメッカとしてにぎわう藤並公園や隣接する高知公園駐車場は、その藤並神社を囲んだ堀を埋め立ててできたものだ。

藤並神社は文化3(1806)年に土佐藩十代藩主の山内豊策(とよかず)が創建し、初代藩主の一豊とその妻・見性院(けんせいいん)、二代藩主の忠義を祀(まつ)ったのが起源。

明治4(1871)年、藤並神社の御旅所(おたびしょ)のあった大原町に山内神社が創建され、三代忠豊から十四代豊惇(とよあつ)が祀られる。両神社とも戦火で焼失するが、昭和45(1970)年に山内神社の社殿を再建し藤並神社を合祀(ごうし)し現在に至る。

この場所には野中兼山邸があった。野中兼山は元和元(1615)年に今の兵庫県姫路市に生まれ、13歳の時に父の従兄弟で土佐藩の野中直継の娘・市の入婿となった。一豊の妹・合(ごう)の孫という血縁もあり、17歳で養父・直継とともに奉行職に任じられ、22歳の時に直継が亡くなると家督を継ぎ藩政改革を積極的に進めた。

山田堰(ぜき)や八田堰(ぜき)、手結内港、津呂港、室津港などの港湾整備といった土木事業だけでなく、捕鯨の推進、ミツバチやアサリの繁殖、山林の輪伐制の導入、和紙・茶などの専売制など土佐藩発展の基礎となる業績は多岐にわたる。

だが、あまりにも急進的なかつ独裁的な施策は藩内から反感を買い、寛文3(1663)年に失脚、家督を長男・清七に譲り現在の土佐山田に隠居するが、その年の12月15日に急逝する(享年49歳)。翌年、遺族は宿毛に幽閉され野中家は断絶、屋敷は没収され跡地に藤並神社が建てられた。

現在、藤並神社の社格標は鳥居のあった場所の近くにあるが、野中兼山先生邸跡の碑は、なぜか屋敷のあった堀の内側でなく外側にある。

高知こどもの図書館 理事 門田 幹也

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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。