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歴史万華鏡コラム 2019年9月号

歴史万華鏡
高知市広報「あかるいまち」より

赤岡の浜五郎兵衛

9月号写真

「塩の道」をご存じだろうか。江戸時代にできた、海辺の町・赤岡でとれた塩などを山深い物部の里まで運ぶための道で、近年では、塩の道保存会が毎年人気のイベントを行っていることでも知られる。

「長宗我部地検帳」によると、赤岡浜に五十二浜、今在家村(赤岡東部)に二十一浜の塩田があり、赤岡一帯には塩田が広がっていたとされる。赤岡は製塩によって商都へと発展し、後の絵金のパトロンともいうべき裕福な旦那衆を生み出していくわけである。

高知有数の製塩の町となった赤岡だが、かつては質が悪く、少量しか生産できなかった。この状況を飛躍的に改善させた人物が日和佐城主の弟、日和佐権之守正儀であった。一体なぜ徳島県の武将が赤岡で製塩事業を行うことになったのか。

日和佐氏は、帰順していた長宗我部元親がほぼ四国統一を果たした矢先に、秀吉によって領地を奪われ、それに伴い蜂須賀家政が阿波守となってしまう。阿波にいられなくなった正儀が大阪の天満へ隠遁していた一五九六年、赤岡で製塩業を起こせとの元親の要請を受けたのである。

赤岡に移住した正儀は姓名を浜五郎兵衛と改め、塩の製造を始めた。元親が五郎兵衛による製塩事業を進めた理由として、「赤岡町史」によれば、阿波の撫養の塩をはじめとする瀬戸内式の塩田造成(入浜式塩田)の技術を買ったためではないかとされている(最終的には揚浜式を用いた)。いずれにせよ、質の悪かった塩の品質改良に成功することができた。

後年は山内一豊に仕えて一領具足の一揆を取り鎮め、赤岡浦大庄屋として町づくりを任じられた。五郎兵衛屋敷は現在の絵金蔵の辺りだったとされている。その後阿波国守蜂須賀家から帰省勧告を受け、五十一歳のとき三男と共に日和佐へ戻った。

その頃には庄屋役を次男に譲り、高知で浜家は続くこととなる。十代目の浜政弘は、三菱会社・日本郵船・東京電機鉄道会社の役員等を歴任している。なお、次男の子孫の墓は五台山竹林寺内にあるとされている。

絵金蔵 福原 明理

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※このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。