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文化財情報 史跡 谷時中墓

指定

高知県指定 史跡 指定年月日 昭和28年 1月29日

名称

谷時中墓

所在地・所有者

高知市横浜

写真

谷時中の墓の画像
谷時中墓

解説

 横浜から長浜への旧道に通じる切通しの東側の丘陵箕越[みのこし](見残)山の上にある。急な石段を登ると木立に囲まれた小祠堂がある。これが谷時中[じちゅう]の墓で、清川神社とも呼ばれている。
 谷時中(1599~1649)は1599(慶長4)年安芸郡甲浦[かんのうら]の真乗寺で生まれる。父は浄土真宗の僧宗慶。のち吾川郡瀬戸村真常(乗)寺に移り、同郡長浜村雪蹊寺の僧天室(質)から儒学を学び、後比叡山に行き修行した。儒書を精読し、なかでも『大学』を愛読したが、真常寺の住職の折、仏壇に秘蔵しておき、時々それを経文代りに読んだという。やがて僧籍を離れて、本格的に儒学の道を志すようになった。その門下に家老の野中兼山、小倉三省、山崎闇斎らがおり、兼山の儒学奨励もあって土佐南学といわれるほど学問的に発展する。時中はその性豪胆にして、官途につくことなく、最後まで民間にあって学を講じた。又経済家としても高い見識をもち、瀬戸村は浦戸湾の海水が北から入っていたので、その入口に東西約40mの堤防を築いて、低湿地を干拓して約300石の耕地をつくった。1648(慶安元)年この田地と山林24町歩を高知城下の豪商播磨屋宗徳[はりまやそうとく]に銀16貫目で売却し、息子の一斎を京都に遊学させている。宗徳も時中から学問的に影響を受けていた。1649(慶安2)年12月30日51歳(52歳ともいう)で没した。