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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
「中山高陽先生誕生地」の碑に思うこと
高知市広報「あかるいまち」2019年4月号より
「中山高陽先生誕生地」の碑
●「中山高陽先生誕生地」の碑
 現在、中央公園から路面電車の線路をはさんで南側の道沿いに「中山高陽先生誕生地」の碑が立っている。中山高陽(一七一七〜一七八〇)は江戸時代中期の土佐を代表する絵師で、現在に至るまで土佐・高知が輩出した最も偉大な絵師とされる。

 近代以降の高知の画家たちからも尊敬を集めたが、この誕生地の碑の歴史を振り返ると、高陽の名声が今に伝わるのは絵師ひとりの力によるもののではないことが分かる。

 碑が建てられたのは昭和二十九(一九五四)年三月。それに先立つ一九五二年七月、高知市文化財保護委員会にて郷土偉人記念碑三基を立てることが計画され、同月三十日の高知市文化財保護協議会において、中山高陽誕生地の記念碑を立てることが正式に決定した。

 この時、高陽が選ばれた理由は定かではないが、同年十一月の高知新聞に掲載された「孤独の美術家」という筆者不明の記事には、同年はじめ、高知の美術界のけん引役であった山脇信徳(しんとく)が亡くなり県展に山脇賞が設置されたことを受けて、山脇の死後の名誉と対照的に、忘れ去られかけている高陽の現状を嘆き、記念碑の建立に期待を寄せる言葉がつづられている。山脇の死をきっかけに県の偉大な絵師を検証する気運が生まれたのかもしれない。なお、碑文は昭和期の高知を代表する日本画家、島内松南(しょうなん)が書いた。

 この碑の建立を境に、一九五〇年代後半から六〇年代にかけて、高知ではにわかに高陽の画業顕彰が盛り上がった。一九五七年には高知市文化祭の中で、高知大丸を会場に高陽展が開かれ、個人所蔵家が秘蔵していた作品や関連資料も公開されるようになる。併せて紀行集も刊行され、中山高陽の事績は一部の愛好家のみならず、一般に広く知られるようになった。一九六九年には東京国立博物館での特別陳列も実現した。

 この時期に行われた調査研究は今も高陽研究の基礎として参照され続けている。碑を前に、高陽の画業顕彰のバトンを連綿とつないできた人々に思いをはせる。

高知県立美術館 学芸員 中谷 有里
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