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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
海援隊OB石田英吉(えいきち)、ヴィクトリア朝ロンドンをゆく
高知市広報「あかるいまち」2018年1月号より
留学時代(1886年) の写真。ケンブリッジの写真スタジオで撮影されたもの。石田英吉(左上)福富孝季(左下)。高山智博氏蔵。
●留学時代(1886年) の写真。ケンブリッジの写真スタジオで撮影されたもの。石田英吉(左上)福富孝季(左下)。高山智博氏蔵。

シュタイン宛礼状(Japanischer Nachlaß Lorenz von SteinsLandesbiliothek Kiel Cb 102 4.2: 04 Korrespondenten) シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州立図書館所蔵。
●シュタイン宛礼状(Japanischer Nachlaß Lorenz von SteinsLandesbiliothek Kiel Cb 102 4.2: 04 Korrespondenten) シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州立図書館所蔵。
 坂本龍馬の突出した存在感の影に隠れている人物は少なくない。明治維新一五〇年が、そういった場所に光を当てる機会になるのもよいと思う。
 海援隊の規約(海援隊約規)にある文言「海外ノ志アル者此隊ニ入ル」が生きていたのか、明治に入ってから海外に出た海援隊士は、陸奥宗光(むつむねみつ)、菅野覚兵衛(すがのかくべえ)、白峯駿馬(しらみねしゅんめ)など、一人や二人ではない。現在の安田町出身で、官僚として明治を生きた石田英吉もそのひとりである。この人の、あまり世に知られていない二度の海外渡航経験について書いてみたい。

 最初は、イギリス領香港、上海、マカオ。陸奥宗光が県令を務める神奈川県の邏卒(らそつ)総長として、警察制度調査に数カ月出張したもので、分厚いレポートが残されている。帰国後提出した、全国的なポリスフォールス(警察)確立に向けた提言書は、日本の警察史を語る史料のひとつだ。
 幕末、天誅組(てんちゅうぐみ)から戊辰(ぼしん)戦争まで戦に明け暮れた数年間を過ごした石田だが、このレポートを見ると、石田の本領が、大砲や鉄砲の扱いにはなかったことが分かる。攘夷(じょうい)を標榜した時期もあったはずだが、明治八年から努めた秋田県権令(ごんれい)・県令時代には、フロックコートに山高帽姿が定番のハイカラ知事として知られ、西洋料理店を開かせたり、秋田高校に最新の理科実験設備を導入するなどした。イギリス人の女性旅行家イザベラ・バードもそれらについて書き記している。すっかり開明派になったのには、香港出張の影響も大きかっただろう。

 二度目は、五十歳を目前にしてのイギリス留学である。長崎県令から元老院議官になってすぐのことで、「短才無能の自分のような者だが、もう一度勉強して国のために働きたい」という嘆願が認められ、二年半ほどロンドンに滞在した。
 石田が滞在したのはヴィクトリア朝のロンドンである。今のロンドンの象徴タワー・ブリッジは建設真っ最中、産業革命が進行し、貧しい労働者階級が暮らす一角も生まれていた。失業者のデモに警察が発砲する事件がおき、バーナード・ショーはフェビアン協会の活動、ウィリアム・モリスはアーツ・アンド・クラフツ運動に取り組んでいる。付け加えれば、ロンドン病院にはエレファントマンことジョン・メリックがおり、イースト・エンドで切り裂きジャックが連続殺人に手を染め、ベーカー街にはシャーロック・ホームズもいたかもしれない。
 またこのころロンドンは、日本製品が各家庭にひとつはあったというほどの日本ブームで、実際に日本人がそこに住んで暮らしぶりを見世物にする日本人村という期間限定のテーマパークまであった。日本人というだけでもてはやされる時代だった。石田はかなり刺激的なロンドン生活を送ることができたはずで、日記でも残されていたらと思うのだが、留学中の動向は、残念ながら詳(つまび)らかではない。
 唯一はっきりしているのが、明治二十一(一八八八)年、帰国する年になってウィーンで法学者ローレンツ・フォン・シュタイン博士から政治学の講義を受けたことだ。ドイツの図書館が所蔵している、シュタイン博士に宛てた二通の礼状でそれは確認できる。
 国会開設を控えた当時の日本では、伊藤博文らが憲法や内閣制度などの研究にヨーロッパを訪れ、さまざまな学者に意見を求めていた。伊藤は、シュタイン博士に最も信頼をおいたという。その噂が広まると、「ヨーロッパに行ってシュタイン博士を訪ねないのは、有馬に行って温泉に入らないようなもの」と言われるほど次から次へと日本人が訪れるようになる。
 そのひとりに陸奥宗光もいた。最近さる方のご好意により、石田から陸奥宛の書簡を見る機会に恵まれた。それは渡航直前に、便船が決まったことをわざわざ知らせる内容で、石田の留学と陸奥との繋がりをうかがわせるものだった。帰国後石田は第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣の陸奥農商務大臣の下で事務次官になるが、あるいは石田の留学は、そういった人事への布石だったのだろうか。そこから明治政府の中枢に進む可能性もあったのだろう。
 しかし洋行帰りの事務次官は、前任者の不始末の責任を取って短期間で辞任しなければならなかった。その後、約三十年ぶりに郷里高知に居を落ち着け、第十二代高知県知事として五年間を過ごすのである。

安田まちなみ交流館・和(なごみ) 中村 茂生
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