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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
遠い戦地へ出陣した軍馬
高知市広報「あかるいまち」2017年5月号より
昭和八年八月建立の鳳龍の墓(若草町)。
●昭和八年八月建立の鳳龍の墓(若草町)。
 若草町の県道三十八号沿い、ドラッグストアとタクシー会社の間にある水の神様を祭る小祠(しょうし)の敷地内に、軍馬「鳳龍(ほうりゅう)」の墓がひっそりと建っている。墓の裏面には鳳龍の略歴が刻まれており、それによると大正四(一九一五)年に青森で生まれ、大正九(一九二〇)年三月二十二日に陸軍歩兵第四十四連隊に就役したとある。
 現在の曙町、高知大学朝倉キャンパスなどには、かつて陸軍歩兵第四十四連隊の兵営があった。戦争の空気が漂う日本で、明治三十年ごろ高知で編成されたこの連隊に、鳳龍は軍馬としてやってきたのである。
 軍馬には連隊長などの指揮官が乗る乗馬、荷馬車を引く輓馬(ばんば)、荷物を背に乗せて運ぶ駄馬(だば)の三種があり、鳳龍は乗馬であった。戦闘時に騎乗ができるよう特別な訓練を受けた鳳龍は、大正九年九月から大正十一年六月までシベリア事変へ連隊と共に出陣した。
 昭和七(一九三二)年、満州事変に引き続き、上海事変が勃発。連隊と鳳龍も同年二月二十八日から三月三十一日まで出陣することとなる。この時、連隊兵舎内では、日本共産青年同盟高知地区委員会のメンバーが、上海出兵に反対する「兵士よ敵をまちがえるな」と書いた反戦ビラを配布。このビラの原稿を書いたのは、長編詩『生ける銃架(じゅうか)-満州駐屯軍兵卒に-』の作者で、反戦詩人の槇村浩(まきむらこう)であった。
 上海から帰還後の昭和八年五月二十一日、鳳龍は高知で生涯の幕を閉じる。墓の裏面の最後には「斃(へい)死」とあるが、斃死とは、動物が病気などで突然死することである。この墓以外に資料がなく、確かめるすべはないが、生まれ故郷を離れ、軍馬として生きた鳳龍はどのような死を迎えたのだろうか。
 現在、県内で確認されている軍馬の墓や記念碑、慰霊碑は鳳龍の墓一基だけであるが、全国に現存する軍馬碑は、九百基以上あるといわれている。戦争では人間だけではなく、多くの馬たちも犠牲になったことを忘れてはならない。

平和資料館 草の家
学芸員 藤原 義一
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