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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
第55回 絵金とその妻の墓
高知市広報「あかるいまち」2016年12月号より
真宗寺山(薊野北町)の絵金とその妻の墓。
●真宗寺山(薊野北町)の絵金とその妻の墓。
 幕末から明治にかけて、極彩色の芝居絵屏風を描いて人気を博した絵師の金蔵、通称絵金。晩年中風にかかりながらも変わらず人々の求めに応じて制作に打ち込んでいたといわれるが、明治九(一八七六)年三月八日、六十五歳で死去し、南国市田村・本正寺で葬儀が行われた。そして明治十二年、妻・初菊(はつぎく)が六十二歳で没した後に、高知市薊野北町の真宗寺山に夫婦の墓が建てられた。
 墓碑正面には「友竹斎(ゆうちくさい)夫妻墓」とあり、絵金がよく用いた画号が刻まれている。ちなみに「友竹」は、浮世絵の祖・菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)が剃髪後に用いた号でも知られる。墓碑の残る三面に記された碑文には、数百人という驚くべき弟子の数が記されている。在籍していた弟子の数を、年ごとに累積した延べ人数ともいわれるが、それにしても大人数であることに変わりはない。
 絵金は、土佐藩御用絵師であった三十歳代以前に、武市半平太や河田小龍(しょうりょう)など、後に幕末維新で活躍する人物に狩野派を教えた。しかし、その後失脚して、町絵師に下った絵金の元に集まったのは、主に絵馬屋や紺屋などの職人絵師たちであった。絵金は各地から集まった多くの弟子たちに絵を教えながら、彼らとともに芝居絵屏風を作っては各地に残し、土佐の夏祭りの夜を彩った。弟子たちは、師・絵金の没後も芝居絵屏風を描き続け、土佐の夏祭りの文化を継承した。
 絵金が眠る真宗寺山は、古くは大穴山と呼ばれていたが、藩政時代に浦戸町(現・南はりまや町)の真宗寺の支配する山となり、真宗寺山と呼ばれるようになった。墓地山だったこの山には、絵金のほかにも土佐勤王党で「人斬り以蔵」の異名をとる岡田以蔵(宜振(よしふる))や、岩崎弥太郎らを門弟に持った儒学者の岡本寧浦(ねいほ)、自由民権家で初代高知市長の一圓正興(いちえん まさおき)など、高知を代表する先人の墓が点在する。近年、地域住民の手で山道の整備が進み史跡めぐりのコースにもなっている。濡れ落ち葉など足元にはお気を付けて、散策を楽しんでいただきたい。

こうちミュージアムネットワーク 絵金蔵 学芸員 横田 恵
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