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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
第53回 やなせたかしと高知
高知市広報「あかるいまち」2016年10月号より
やなせたかしの高知での足跡
●やなせたかしの高知での足跡
  やなせたかしの経歴をご覧になったことがあるだろうか。出身地を「高知県」としているが、父が新聞記者の仕事をしていたため、実は東京都北区滝野川が出生地。しかし父母の郷里が香北町であったことから、高知県出身としたのだ。
 父・清(きよし)は香北町在所村朴ノ木(ほおのき)の柳瀬家の三人兄弟の次男、母・登喜子(ときこ)は在所村永野の谷内家の六人兄妹の次女。やなせは三歳まで東京で過ごすが、一九二三(大正十二)年六月、父の上海赴任に伴い、父母の故郷、在所村へ引っ越す。
 ここで二歳年下の弟・千尋(ちひろ)と野山を駆け回り楽しく遊んだが、その生活は父の死によって一変する。弟は南国市後免で開業医をしていた伯父・寛(ひろし)に養子として引き取られ、やなせは母と母方の祖母・鐵(てつ)と、高知市追手筋の岸野という医者の家の離れで暮らし始める。市立第三小学校(旧・追手前小学校)に入学するが、小学二年生の時に母の再婚によって弟のいる柳瀬医院に預けられ、後免野田組合尋常小学校(現・後免野田小学校)に編入した。
 進学した県立城東中学校(現・追手前高校)では図画が得意で、絵を描くことを志し、伯父の勧めで商業デザインを学ぶため、東京高等工芸学校工芸図案科に進学。
 伯父の役に立とうと田辺製薬へ就職を決めた大学卒業の年、伯父は帰らぬ人となる。一年後、やなせは召集され、九州小倉の野戦重砲兵第六聯(れん)隊補充隊へ入隊し、中国泗渓鎮(しけいちん)で終戦を迎える。
 翌年高知へ戻り、従軍時代の友人に誘われ、くず屋を手伝うが、進駐軍のごみとして集めた雑誌の挿絵を見るうちに制作への意欲が高まり、くず屋を辞めて高知新聞社へ就職する。その後東京に活躍の場を移し「アンパンマン」を代表作に多くの作品を生んだ。
 有名となってからも、やなせと高知との関わりは続いた。最晩年にも高知の地方紙に連載を持ち、幼少期から青年期を過ごした高知の思い出をつづっていたことからも、やなせの故郷への思いを感じ取ることができるのではないだろうか。

こうちミュージアムネットワーク 香美市立やなせたかし記念館 学芸員 中村 友紀
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