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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
第51回 「一領具足」の実像
高知市広報「あかるいまち」2016年8月号より
浦戸城明け渡しを拒み、討ち取られた一領具足供養のために建立された六体地蔵(浦戸)
●浦戸城明け渡しを拒み、討ち取られた一領具足供養のために建立された六体地蔵(浦戸)。
  戦国時代の土佐を治めた大名・長宗我部氏の主たる兵力が、いわゆる「一領具足」である。軍記物語『土佐物語』には「死生知らずの野武士なり」と記されるなど、勇猛果敢な土佐武士の代名詞として聞いたこともあるだろう。彼らは平時、農民的な生活を送り、戦時には武装して駆け付ける半士半農の存在とされる。そして、一領具足の名称は、彼らが具足(よろい)を一領しか持っていないという質素さに由来すると考えられてきた。
 しかし近年、長宗我部氏の研究者の中でその由来が疑問視されつつある。最新の研究によると、古文書など歴史資料から一領具足の用例を網羅的に分析した結果、「具足を一領しか持たない武士」ではなく、「具足一領分の軍役を負担する武士」がその実態であるという(平井上総「一領具足考」(『花園史学』三十六号、二〇一六年))。軍役とは武士が主君に対して負う軍事上の負担である。つまり、戦が発生した際に一人分の兵力を負担する下級武士が一領具足の実像というのだ。
 具足一領分の軍役しか負担しない下級武士は、戦国の世においてどこの大名家でも一般的で、長宗我部氏特有のものではない。しかし、長宗我部氏の家臣にはそのような下級武士が他の大名家より圧倒的に多かったのは事実である。
 慶長五(一六〇〇)年の関ケ原合戦を経て、土佐の国主が山内氏になった江戸時代。三代藩主・山内忠豊が親類大名から受け取った書状には「土佐国之儀ハ余国ニ違、長曽我部代より一領具足とて余多有之儀ハ隠れもなき事候」(『山内家史料第三代忠豊公紀』一巻)とある。この事例からも、長宗我部氏の時代から一領具足が土佐に多くいたことは、他国でも有名な話であったことがうかがえる。
 戦国の世、下級武士は一般的だったが、長宗我部氏にとっては主な兵力であったことは間違いない。彼らのような名もなき武士の活躍があったからこそ、「土佐の出来人」長宗我部元親が大名として四国を席巻したということを忘れてはなるまい。

こうちミュージアムネットワーク 高知県立歴史民俗資料館 学芸員 石畑匡基(こくはたまさき)
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