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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
第46回 高知の病院と開成館
高知市広報「あかるいまち」2016年3月号より
東九反田公園にある開成館址<br />あとの碑。
●東九反田公園にある開成館址
あとの碑。
 高知市は「病院のまち」といわれることがある。平成二十六年の医療施設調査(厚生労働省)によると、当時全国に四十三あった中核市のうち、高知市の病院数(診療所を除く)は二番目に多かった。人口が同規模の、ある中核市と比較すると、面積の差はあるにせよ、病院数は約三倍に及ぶ。市街を歩けば、病院が建ち並ぶ風景もなるほどと納得できる。

 高知県の病院の歴史を考えるとき、吉田東洋の遺志を引き継ぐ形で慶応二(一八六六)年二月に開設された「開成館」が、土佐における西洋医学の導入に大きな役割を果たしたことをご存じだろうか。

 開成館は、幕末の激動する政治・社会情勢の中にあって、殖産興業による藩の近代化を図って設置された機関である。仕置役の後藤象二郎が中心となって運営され、館内には複数の部局が設けられた。貿易関係では岩崎弥太郎が、洋学関係では中浜万次郎・細川潤次郎が関わっていたことは広く知られている。それらの部局の一つに、西洋医学の導入を担当する「医局」があった。

 開成館の設立以前、藩営の「医学館」(後に「沢流館(たくりゅうかん)」と改称)が医学普及の役を果たしていたが、これらは漢方医学を専らとす
るものであった。土佐藩は、開成館設立後、間もなく西洋医学修行生の募集を行い、開成館医局において本格的に西洋医学の研修を開始したのである。

 明治元(一八六八)年、戊辰戦争の真っただ中、初めて藩立病院が設立された際、これに深く関与したのは開成館医局であった。その後の藩政改革の中で、開成館は外賓を接待する「寅賓館(いんひんかん)」へと姿を変え、医局は改編を重ねながら藩(県)営病院付属の教育機関となっていった。

 開成館は、幕末期に殖産興業の基地として起こり、その建物は明治時代以降に薩摩の西郷・大久保、長州の木戸、土佐の板垣の会談場所、自由民権運動の中心結社「立志社」本社、山内家の私立学校「海南私塾分校」(後の「海南学校」)などに使われたことで広く世に知られている。

 その設立から百五十年を迎えたことし、政治・経済にとどまらない幅広い視野で将来を見据えようとした開成館を、改めて評価する良い機会かもしれない。

こうちミュージアムネットワーク 土佐山内家宝物資料館 学芸員 冨井 優
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