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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
第30回 土佐藩との長き攻防
高知市広報「あかるいまち」2014年9月号より
旧深尾邸があった高知電気ビル周辺(本町四丁目)
●旧深尾邸があった高知電気ビル周辺(本町四丁目)
 高知の人々にとって、「深尾(ふかお)」という姓は「佐川(さかわ)」を連想させるかもしれない。しかしこの深尾氏、実は佐川本家のほかに、高知城下に居住していた分家が四家あり、この五家が土佐藩の中枢の約半分を占めていた。

 特に、佐川領主である本家・佐川深尾家(以下、深尾家) は、土佐藩筆頭家老に位置付けられ、さらに、藩主家から迎えた養子が二代目領主となったことも相まって、江戸初期にさまざまな特権が与えられた。それはまるで、土佐藩の中に別の小藩が存在するかのような状況であった。

 例えば、ほとんどの家臣が城下での居住を義務付けられていたのに対し、深尾家は領地での居住が許されたため、必要なときに高知城下へ出向くものの、普段は領主として佐川に居住できた。そのため、元来は土佐藩から預けられる形で深尾家家臣となった面々も、次第に深尾家生粋の家臣のような心持ちとなり、主従の絆は堅固なものとなってゆく。

 しかし、土佐藩と深尾家の関係は、初期の蜜月期を過ぎると変化し、次第に対立めいた構造が生じてしまう。特権を削(そ)ごうとする土佐藩と、保持しようとする深尾家との間で生じた攻防は、江戸期を通じて水面下で続いた。

 幕末になって、土佐藩が領主を蟄居(ちっきょ)させ、領地を千石減少させることで、ようやく深尾家の独立性の完全否定に成功するのである。このような土佐藩との対立が、比較的身分が高い家臣たちまでもを志士たらしめた要因の一つといえる。

 かつて高知城の南隣に位置し、他家をしのぐ広大さを有した深尾邸。この屋敷は、長く治外法権的な扱いを受け、また、土佐藩の正月恒例行事である御駆初(おのりぞめ)では、家臣たちの晴れ姿を見学するために城より下りてくる歴代藩主たちの御座所にもなった。

 この華やかで、かつ深尾家を象徴する場所で起こったささいな出来事が、まさにアリの一穴(いっけつ)の如く深尾家を崩壊に導くが、皮肉なことに、それは土佐藩の消滅とほぼ足並みをそろえてのことであった。

こうちミュージアムネットワーク 佐川町立青山文庫 学芸員 藤田 有紀
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