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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
第24回 江戸と昭和をつなぐ絵図
高知市広報「あかるいまち」2014年3月号より
『自浦戸到幡多倉橋図』(宿毛市立宿毛歴史館所蔵)
●『自浦戸到幡多倉橋図』(宿毛市立宿毛歴史館所蔵)
 香美市立美術館で二〇一二年秋に開催した「絵金とその時代」展の準備で、江戸時代の土佐のさまざまな絵図を目にする機会があった。中でも『自浦戸到幡多倉橋図(うらどよりはたくらばしにいたるず)』や『浦戸湾風景』に大いに興味をそそられた。これらの絵図に描かれている堀川周辺は、まさに絵金が生まれ育った場所であるが、どことなくわたしの幼少期の記憶につながるものとして強い印象を受けた。

 わたしは昭和二十四(一九四九)年に、中新町(現桜井町)に生まれた。昭和小学校に入学し、絵図に描かれた菜園場や幡多倉(現九反田)の辺りは、しょっちゅう行き来していた場所である。

 当時は中央卸売市場(現在は弘化台に移転)があり、多くの船が堀川を通って魚や野菜、荷物などを運びにきていた。そのため、現在のかるぽーとの辺りはにぎわいが絶えず活気に満ち溢れており、堀川へは船着場の写生によく行ったものである。絵図の中の堀川にはわたしの記憶と同じようにたくさんの舟がひしめき、荷揚げや売買をする人、忙しそうに働く多くの人々でとても活気が感じられる。江戸時代から高度経済成長期の前の昭和三十年代頃までは、絵図に描かれたような暮らしぶりがまだ残っていたように思われる。

 絵図にある新市町、浦戸町、種崎町などは、幼少期によく耳にした地名である。当時は「○○町の△△さん」のように地名と人名とを一緒に呼んでいた。これは、江戸時代の言い方と同じで、まさに絵金の時代から続く時間を生きていたようである。絵図にある新町は、幼少期には南から南新町、中新町、北新町と呼ばれ、鉄砲町で江ノ口川にいたる。絵図ではこの辺りはまだまだ家並みが少なく田畑のようであるが、わたしが生まれた当時は既にぎっしり家が建ち並んでいた。菜園場橋を西に渡ると、そこから先はもう「おまち」で、そこに足を踏み入れる時は、子ども心に少し緊張したものである。

 絵図の中で生き生きと描かれている人々の姿は、わたしの記憶の中の人々と重なり、何度見ても見飽きることがない。百年以上前のまちの様子から、幼少期の思い出がよみがえり、心地よい気持ちになった。

こうちミュージアムネットワーク 香美市立美術館 館長 都築 房子
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