土佐史研究家 広谷喜十郎

192 赤穂浪士と土佐 -高知市広報「あかるいまち」1999年11月号より-
 NHKの大河テレビドラマ「元禄繚乱」の後半になると、赤穂(あこう)浪士の寺坂吉右衛門(きちえもん)が主人の吉田忠左衛門(ちゅうざえもん)のもとで行動を共にして、同志間の連絡係などを務めているのが目に付いた。
 討ち入りの時には裏門組に属して働いていたが、引き揚げの途中で首領の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の密命を受けて退散したといわれている。
 吉右衛門が逃亡したとの一説もあるが、作家藤沢周平は「寺坂は吉田家の家族を養っている吉田の聟・伊藤十郎太夫に、その後12年仕えるが、本当の不届者にそんなことができるわけがない」(『周平独言(どくげん)』)と、全面的に否定している。
大高源五の遺墨(拓本刷り)
大高源五の遺墨 吉右衛門は、晩年江戸へ出てきて、土佐藩の江戸麻生の山内家に仕えたことを雑誌「土佐史談」33号で福島成行が「高知藩士となりたる寺坂吉右衛門」を書いて紹介している。吉右衛門は、麻生の曹渓寺(そうけいじ)に身を寄せていたところ、檀家のよしみで土佐藩の支藩(しはん)であった麻生山内家(あそうやまうちけ)に仕えることになったという。
 延享4年(1747年)10月6日に83歳で死去しているが、遺稿に「信行日記」、「寺坂談」があって、大小の刀と黒羽二重の小袖が残されており、その子孫は小姓組として仕えていた。なお、曹渓寺境内にある麻生山内家の墓所の入り口近くに「節岩了見信士(しんし)」と刻記された墓がある。

 赤穂浪士が本懐を遂げた翌日の元禄15年(1702年)12月15日に、泉岳寺に引き揚げてきた浪士たちと接触した土佐出身の白明という僧侶がいた。その折、大高源五、木村岡右衛門、茅野和助、岡野金右衛門の四人から、その心境を歌や句に書いてもらっている。大高源五の句は「山をさく ちからも折れて 松の雪」であるが、これらを木版刷りにして配布していたようである。
 その後、浪士たちが、切腹させられ、遺体が泉岳寺に葬られた時にも白明は立ち会っている。やがて白明は、享保3年(1718年)土佐に帰国して宿毛の東福寺の住職となり、浪士遺墨(いぼく)の由来を『白明話録』にまとめ、遺墨は代々寺宝として保存されていた。その後、宿毛義士会が組織され、毎年2月4日に供養の会を催していたといわれている。

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