土佐史研究家 広谷喜十郎

190 十津川と土佐(一) -高知市広報「あかるいまち」1999年9月号より-
 数年前に和歌山県から奈良県十津川を通って吉野山への旅をした。その折、道沿いにある十津川村歴史民俗資料館に立ち寄ってみた。そこの展示品の中に、天誅組関係の資料が数多く展示してあったのが目に付いた。その展示コーナーのすぐ近くに十津川郷士の中井庄五郎の大刀と坂本龍馬から中井庄五郎にあてた書簡(写)が展示されていた。
 庄五郎の大刀は、やや大振りの太身のもので重量感がずっしりと伝わってくるもので、豪剣を軽く振り回す、剣術家として秀れた人物であったことが容易に想像できた。

 坂本龍馬が暗殺された直後に「庄五郎は必死になって犯人を探索し、遂に天満屋に居ることをつきとめ、同志と共にこれを襲撃、乱闘の末、斬死した。21歳であった」(『十津川巡り』)とあるように、海援隊士の同志と共に、天満屋に真っ先に斬り込んで闘死した人物が中井庄五郎であった。
 12歳年上の龍馬を兄貴のように慕っていたので、このような行動に出たのであろう。

天誅組絵巻(十津川村歴史民俗資料館)
天誅組絵巻 庄五郎については、龍馬の妻であるお龍の証言記録である『千里の駒後日譚拾遺』に「頬髯の生えた威厳しい男でした(略)僕は阪本氏の為めなら何時でも一命を捨てるってネ…果して龍馬が斬られて同志が新撰組へ復讐に行った時、此の中井さんが真先に斬り込んで花々しく戦って討死したのです。墓は東山の龍馬の墓の五六間向ふに出来て居ます。海援隊が建てた」と記述されている。

 平尾道雄著『海援隊始末記』の「天満の夜襲」の条にも劇的に描写されているが、討手側の犠牲者は庄五郎だけであったという。
 平尾氏は「中井は大和十津川郷士で居合の名人、武辺で風采にかまわず、熊というあだ名があった(略)かれは階上で〈よいしょ、よいしょ〉と掛声をかけ、豪快に戦っていたが、ついに敵刃にふれてたおれた。同志の者がその首を打って戸外に出たが、重いので井戸へ投げこんだ。刀は二尺八寸〈中井庄五郎義高〉と銘を打ったのが、鍔元一尺一、二寸の所で折れていた。そのため不覚をとったものだという」と記述されている。

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