土佐史研究家 広谷喜十郎

189 築屋敷(つきやしき) -高知市広報「あかるいまち」1999年8月号より-
 土佐藩の当局は藩政当初より城下町へ水害が及ばぬように、鏡川や江ノ口川をはじめとして数多くある堀川を整備するための治水工事を繰り返し行っている。寛文12年(1622年)に藩当局は「水丁場之事」という法令を布告し、鏡川沿いに12ヵ所の水丁場を設け、出水の状態に応じて水防組が出動して持ち場を固めるように指示している。
 このころになると、城下町が整備され人口約2万人を超える都市となり、経済的にも活気を呈するようになっている。このような時期を反映して、元禄年代に五代藩主山内豊房公が潮江川を鏡川と改名したのである。

 『南路志』の「築地片町」の条に「風土記曰(略)南奉公人町三丁目横町へ通所、大堤南鏡川境、此処竹薮ニ而有之、宝永元申年望次第ニ被遣銘々自力を以屋敷ニ築、二ヶ年ハ無年貢三ヶ年より免八ツ四歩貢物立」とあるように、武家の住む郭中の近くにあった築屋敷は、もとは大堤防の外側にあって鏡川沿いの竹やぶの多い河川敷であったが、宝永元年(1704年)に町民が自力で屋敷地を設けて片側町にしたものである。
 なお、貞享3年(1686年)から藩当局による堤防工事が始められた折に町づくりが行われたとの一説がある。それにしても町民が自力で町づくりをしたのは、それだけ庶民の経済力が大きくなってきたことを物語っている。

上町三丁目にある水天宮
上町三丁目にある水天宮 さらに、松野尾章行著『高知沿革略志』によると、文政9年(1826年)には藩の御普請方の堤防工事で、西方の通町五丁目にある本覚寺の越戸まで築き上げて武家と町人の屋敷地としているが、ここを新築と呼んでいる。
 また、現在の上町二丁目の月ノ瀬橋の橋元に水天宮があり、「水天宮南奉公人町二丁目越戸、文政七申年依願勧請、但社地天保十三寅年願之上築立ニ相成社再建」(『神社志』)とあるように、文政7年に建立されたものであるが、この神社は、水防や水難よけを祈願する神や鏡川の舟渡し場の守護神を祀っていた。

 幕末に、築屋敷には日根野弁治の剣術道場があって、近くに住んでいた坂本龍馬もここで剣術の修行に打ち込んでいたし、夏ともなれば、毎日、鏡川で泳いでいたといわれている。

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