土佐史研究家 広谷喜十郎

188 山内大膳亮(だいぜんのすけ) -高知市広報「あかるいまち」1999年7月号より-
那佐湾内の二子島(徳島県宍喰町)
 NHKの大河テレビドラマ「元禄繚乱」を見ていたところ、五代将軍徳川綱吉が土佐藩の支藩である中村藩の山内豊明(大膳亮)を取り立てて、若年寄に登用した場面にぶつかった。これは、外様大名からの登用はあり得ない、慣例を破っての登用だったという。
 さらに、老中に抜擢しようとしたが、豊明が病気を理由に辞退したので、綱吉は大いに怒り、若年寄職を罷免して中村三万石の領地まで没収してしまった事情を描いていた。

 『幡多郡誌』によると、豊明は「直久」として出ており、中村支藩の三代山内忠直の二男で寛永19年(1642年)に江戸で出生して大膳亮とも称していた。兄豊直より三千石を分与されたが、延宝5年(1677)に兄が死去した折、五代豊次が幼少のために後見人となった。
 豊明は元禄2年(1689年)4月に江戸幕府に召されて奥詰役をつとめ、同年5月3日には若年寄に昇進したものの、病身で、遠慮深い人物だったので、すぐに辞退を申し出たところ、11月に若年寄役を罷免され、謹慎処分を受けた。

大膳町にある「山内大膳亮邸趾」
大膳町にある「山内大膳亮邸趾」 6月12日に豊次が死去すると、二万七千石は没収され、三千石を豊明に与えられたが、「豊明不敬の罪に因り」(『山内氏時代史初稿』)という理由によって、それも没収されて遠州浜松に配流されてしまい、中村三万石は廃藩となった。この折、安岡久右衛門の『覚書』に「役替に際し御老中への挨拶に無調法」といわれているように、江戸幕府の役人への進物が十分でなかったのであろう。

 元禄5年に赦免されて、高知城下へ帰ることができ、同13年まで住んだので、後にその地を大膳亮にちなんだ「大膳町」という町名が付けられている。同13年に遠国追放も赦免されたので武州品川下屋敷に移住して、同17年(宝永元年)正月17日に逝去し、江戸の青松寺に埋葬された。時に63歳であった。
 廃藩後の中村三万石は幕府領となり、在番役を配置して、税の上納を命ぜられている。そして、元禄9年(1696年)12月9日に中村三万石は本藩の山内家に還付されたので、幡多郡全般を支配するために、中村に郡奉行を配置した。

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