土佐史研究家 広谷喜十郎

186 室津港と土佐 -高知市広報「あかるいまち」1999年5月号より-
兵庫県御津町室津港の町通りにある旧家
兵庫県御津町室津港の町通りにある旧家 昨年末に、瀬戸内海方面における参勤交代路を訪ねての小旅行をしてきた。
 まず、岡山県の東南部にある牛窓町へ行ったが、ここには自然の良港があって、古くから瀬戸内海通行の要所として、「牛窓千軒、帆船の柱、町に黄金の花が吹く」と歌われるほど栄えた港町であった。
 この町に、かつては牛窓杣という山林労働者がいて、彼らは全国各地に出稼ぎに出かけ、材木の伐り出しに従事していた。
 土佐では「元禄十年分御材木山覚」という記録に牛窓杣の名がみえる。
 その後、土佐に住みついた人が居たとみえ、中芸方面には、牛窓姓を名乗る人びとがいるという。

 次に、兵庫県御津町にある室津港を訪問した。この港は、昔から摂津・播磨の五泊の一つとして知られ、参勤交代で瀬戸内海を往来していた西国筋の大名が、最もよく利用していた海の宿駅であった。
 そこで、播磨屋、肥前屋、筑前屋、紀伊国屋などの大名の本陣が設けられ、その跡地には、それを示す石碑が建てられていた。
 それに、小さな港町には、脇本陣に利用されていた豪商の旧家が、あちこちに昔のままに保存されているので、江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気に包まれている。
 なお、歌舞伎のお夏清十郎で有名な清十郎生家跡を示す石碑も町内に建てられていた。 

 残念ながら土佐藩の本陣跡を示す石碑がなかったが、『山内家文書』をひもとくと、この港をよく利用していたことが分かる。
 江戸時代中期の享保3年(1718年)以降、土佐藩の参勤交代路が従前の海岸沿いのルートから、高知城下を出て布師田などを経由して北山越えの道に変更になり、伊予の新宮村や川之江へ抜けて、讃岐路に入るとある時は仁尾港から、またある時は丸亀港から播磨の室津港へ渡り、江戸に至る道筋が多かった。

 例えば、土佐藩主山内豊策は寛政7年(1795年)には江戸を4月21日に出て大坂を経て、5月11日に室津港に到着したが、翌日はあいにくの大雨で滞在を強いられ、13日の朝に室津港を出発して、18日に高知城に帰城したという記述が残されている。

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