土佐史研究家 広谷喜十郎

184 ミツバチの伝来 -高知市広報「あかるいまち」1999年3月号より-
  紀元前数千年前のスペインの洞窟に描写されている壁画には、女性が木に登ってミツバチを採集している絵があるという。
 また、古代エジプト人は船でナイル川を上下し、花を求めながら盛んにミツバチを飼育するようになり、中国でも5世紀ころには養蜂の記録があって、漢方薬の原典である『本草綱目(ほんぞうこうもく)』には、はちみつの薬効とその用法が詳細に記述されている。

 日本の場合は、『日本書紀』の643年の条に、百済(くだら)の王子が大和国三輪山(みわざん)にミツバチを放ったことがみえ、これがミツバチに関する初めての記録である。
 それが、平安時代になると少量ではあるが、全国各地でミツバチの飼育が行われるようになり、蜜のたまった「蜂房(はちふさ)」も中央政府へ献上されており、神に供える神饌用や薬用として用いられていた。
山間部で行われている養蜂(針木西で)
山間部で行われている養蜂(針木西で) 江戸時代初期、土佐藩家老の野中兼山は、コイ、マス、アサリなどの魚介類を藩外から積極的に移入し養殖しているが、ミツバチの移入もはかっている。
 最初は「蜜蜂も江戸より帰り玉ふ時、紀州海岸に船かがり時飛来りて船中に附る、とり帰り本山に放ち玉ふ」(『野中兼山関係文書』)とあるように、兼山は偶然のことからミツバチを土佐へ取り寄せ、彼の知行地である本山で飼育を始めたというのである。

 さらに、紀州へ使者を派遣してミツバチを取り寄せようとしたところ、使者が野根山山中でひそかに巣箱を開けて見ようとしたので、ミツバチが逃げてしまった。それを恐れ入って兼山に報告したが、野根山であれば2、3年のうちにミツバチは自国内で増えるであろうと、家来をとがめなかったそうである。

 それに、二代藩主山内忠義が兼山にあてた書状には、単にミツバチを放置しておくものだけではなく、巣箱をつくるように指示しているものがある。寛文2年(1662年)の忠義の書状では「蜜蜂事之外罷成(ことのほかまかりなり)、方々夥敷事(ほうぼうおびただしきこと)に候」とあり、ミツバチが大いに繁殖していると喜んでいる。

 やがて、土佐の山中の村々でも農家の副業として飼育されるようになり、藩政中期にもなると藩外へはちみつが移出されるようになった。
 『養生訓』で名高い貝原益軒が、宝永6年(1709年)に刊行した『大和本草』には「土佐ヨリ出ルヲ好品トス」とあり、土佐のはちみつが天下を代表する良質のはちみつであるといわれるまでになっている。

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