土佐史研究家 広谷喜十郎

177 はりまや橋界隈(かいわい)(三) -高知市広報「あかるいまち」1998年7月号より-
 慶長6年(1601年)、土佐に入国した山内一豊は二つの河川に挟まれた三角州の地に城下町を建設したが、城下町づくりは困難を極め、河川の治水に苦慮している様を数多くの資料が物語っている。
 そこで、竹林寺の空鏡上人は、城のある河中山の地名を嫌った藩主の命を受けて、慶長15年(1610年)に高智山(高知のはじまり)と改名したほどである。

 やがて、高知城下町は堀川が縦横に網の目のように張り巡らされ、水の都ともいうべき様相を呈するようになり、町通りの連絡を円滑にするために播磨屋橋などいくつかの橋が設けられている。
 そして、町の人口が約2万人と推測される一大都市が17世紀半ばに成立した。寛文5年(1665年)の『土陽顕秘録』によると、「城下に町人街が28カ町あり、町家数2,185軒、町人17,054人」とある。武家屋敷は433軒で人数は不明である。

はりまや橋公園地下通路に展示されている「高知下町浦戸湾風俗絵巻」▼
高知下町浦戸湾風俗絵巻
 江戸時代中期になると、上方の先進的な技術の導入による多種多様な手工業が展開され、庶民の経済活動が活発になっている。
 それに、元禄3年(1690年)には城下の播磨屋橋近くの朝倉町、蓮池町、新市町で月のうち6日間の街路市が本格的に認められ、同7年になると京町などでも認められて、月のうち10日間も城下町のどこかで開かれるまでになった。このころになると、城下町が商人中心の町になってきたといえる。

 また、元禄年間に五代藩主山内豊房が、潮江川を鏡川と改名しているし、城下町を洪水から守るために、12カ所の水丁場を設け、出水の状況に応じて水防組が出動したという水防体制が組織されている。

 下町方面は、城下の台所として大きな役割を果たすようになり、庶民の町として人々が集まりにぎわうようになった。

 文政10年(1827年)、蓮池町山田三郎右衛門、浦戸町谷屋久作、菜園場町夷屋八右衛門は、橋の中央部三間を残し、橋上に店を構えて小商いをしたいと出願して許可されている。

 店は「十九文屋」と呼ばれ、銭二十文未満の子ども用のおもちゃ、小細工物、生菓子類を売っていた。
 その後、この小店は一時期途絶えていたが、慶応3年(1867年)に再び小店が認められ年末や節句の夜店なども開かれるようになった。

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