土佐史研究家 広谷喜十郎

172 女医・お婉(えん)さん(一) -高知市広報「あかるいまち」1998年2月号より-
 奈良時代の法令書には、女医の制が定められたり、女医博士が置かれたりしているが、「産科を主とした今日の助産婦と看護婦とを兼ねたような存在で」(『京都の医学史』)あると述べているように、現在の女医とは全く違ったものであった。
 それに対して、江戸時代前期に誕生した女医としての野中婉は、日本医学史の中で、近代以前では極めて珍しい存在で、日本で最初の女医ではないかという人がいるぐらいである。

 土佐藩家老の野中兼山は、晩年に追放され、寛文3(1663)年12月に急逝した。翌年、野中家は罪人扱いとなり、家禄・屋敷を没収されて、遺族は幡多郡宿毛の地に幽閉された。
 兼山の娘婉女は、兄弟が次々に死亡して野中家の男子がすべて途絶えるまで、40年間も幽閉生活を続けねばならなかった。赦免後、婉女は土佐郡朝倉村に住み、医を業としながら、少しばかりの扶持(ふち)を受けて細々とした生活を続けていた。
●野中婉女の墓。筆山トンネルの高見側出口上は兼山公園
となっているが、その少し上に兼山とその一族の墓がある

婉女が女医として評判を呼んだとの話は「おえんさまの糸脈」がよく紹介されている。これは、患者の手首に糸を巻いて障子の穴に通し、その端を握って診断するという方法で、その診察によって調合した薬で病気がよく治ったので、世間の評判になったといわれている。
 婉女が診察するのはほとんどが庶民で、役人などは拒絶していた。生活困窮者には無料で診察していた心優しい人でもあった。

 ある時、いたずら者がやって来て、糸の端をこっそり猫の足に縛り付け、婉女の糸脈診断を受けた。帰宅後に薬包みを開けてびっくり、中には細かく刻んだかつお節が入っていたという。

 次のような逸話もある。婉女の住む背後の城山の松の木に、大きなコウノトリが巣をつくっていたが、近所の子どもたちがその卵を取って面白半分に焼いていた。それを見て親鳥が鳴き騒いでいるのに驚き、駆けつけた婉女は、子どもたちに少しばかりの銭を与えて、半分焼けた卵を樹上の巣に返してやった。すると、親鳥はどこからか草を運んできて卵の上にかぶせた。やがてその卵からは無事にひな鳥が生まれた。
 その草に霊異を感じた婉女が、それを原料として薬を調合したところ、諸病によく効いたそうである。

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