土佐史研究家 広谷喜十郎 

322 山内一豊と吸江寺(ぎゅうこうじ)  -高知市広報「あかるいまち」2011年9月号より-

 山内一豊は天正十三(一五八五)年の閏八月に長浜城主となり、近世大名になるための組織づくりに専念する。ところが、同年十一月二十九日に江北地方を襲った天正大地震で、最愛の一人娘・与禰(よね)姫を失うという悲劇に見舞われた。

 この時期、一豊は心痛を癒すために美濃国・瑞応寺の南化和尚について参禅をはじめ、禅宗に帰依したといわれる。南化和尚は、後に一豊夫妻に縁深い京都の妙心寺の大通院を開山した人物である。

 子どもに恵まれぬ一豊夫妻は、捨て子を「拾(ひろい)」と名付けて養子に迎え、妻(見性院(けんしょういん))はその子を実子同様に育てた。

 やがて後継者問題が起きると、「吾児(あこ)、茲(ここ)に居てはならぬ事あり、何方へも行き僧となり玉へと宣(のたま)ひて、守り刀を取らせられ(略)黄金百両を与へ、是を以て学問し玉へとて御家を出し玉ふ」(『見性院記』)とあるように、一豊夫妻の計らいで拾は出家する。慶長元(一五九六) 年、十歳の時である。

 拾は京都妙心寺の第五十八代住持(じゅうじ)・南化国師の弟子となり、修業に励み、同五年に「湘南」と号した。

 翌年、一豊は土佐へ入国する折、湘南の行き先を天下に名高い吸江庵と考え、手厚く保護を加えた文書を交付している。湘南は、「吸江中興開山湘南大和尚」として「慶長六辛丑(かのとうし)年三月十六日吸江寺へ御入寺大通吸江両寺兼帯住職三十七年」(『皆山集』)を勤めている。妙心寺の塔頭大通院は、一豊の発願により建立されたこともあり、一豊の義子である湘南が兼任していたのである。

 また、湘南は妙心寺南隣(りん)院の開山となり、和尚の号を許され、朝廷の紫衣の勅許(ちょっきょ)を受けるなど、高僧としての地位を高めている。

 慶長十年の秋、一豊が死去すると、妻は翌年三月に土佐を去り、京都伏見に移り住み、見性院として尼僧の姿になって閑居した。大通院に居た湘南は、折に触れ、見性院を訪ね孝行したという。

 湘南は寛永十(一六三三)年、見性院の十七回忌に当たり、京都に見性閣を設けた。そして、義母の恩に報いるため盛大な法事を行った。湘南は、同十四年に吸江寺で逝去し、彼の遺骨は京都の一豊夫妻の墓近くに、寄り添うように葬られた。

山内一豊の義子・湘南によって中興された吸江寺

●山内一豊の義子・湘南によって中興
された吸江寺

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