土佐史研究家 広谷喜十郎 

321 山内一豊と長浜城  -高知市広報「あかるいまち」2011年8月号より-

 彦根を過ぎ北陸自動車道へ入る。右手に神の山と呼ばれる伊吹山(標高一三七七メートル)が、どっしりと孤高の山容を見せる。

 さらに進むと、NHK大河ドラマ『江』でおなじみの小谷(おだに)城跡が道路沿いにある。右側の城山の麓に、城跡を示す大看板が掲示されている。やがて、湖北にある賤ヶ岳(しずかたけ)サービスエリアに到着する。このあたり一帯は、豊臣秀吉と柴田勝家の軍勢が戦った賤ヶ岳の戦いの場となった。また、この湖北からは、石田三成、小堀遠州(こぼりえんしゅう)、海北友松(かいほうゆうしょう)らの人材を輩出している。

 浅井(あざい)氏が滅亡すると、秀吉は北陸街道の要所にあたる長浜の地に築城し、城下町を設けた。その後、江戸時代には長浜港は彦根三湊(みなと)の一つにまで発展している。昭和五十八(一九八三)年には、二層の大屋根に望楼をのせた天守の様式を取り入れた三層五階の城が復元された。

 山本大(たけし)著『山内一豊』( 新人物往来社) の年表を見ると、天正元(一五七三)年の八月の条に、「朝倉の将三段崎勘右衛門(みたざきかんえもん)を討ち取る。この年、近江唐国を領す。秀吉、長浜に居城」とある。同四年には湖にある「竹生(ちくぶ)島に金若干を寄進す」とあり、秀吉の越前攻略の合戦で、一豊は大いに活躍していた。さらに、同十一年四月に「柴田勝家の軍を追撃す」とある。具体的な行動は分からないが、『山内一豊武功記』に、「此節御勇力に属せらるるなり」とある。山本氏は、「短い文章で奮戦をしのぶことができよう」と推測している。

 一豊は、亀山城の攻撃、賤ヶ岳参戦の戦功により、八月に河内国(現大阪府枚方市の北)で三百六十一石の加増を受けることになった。さらに、翌年に播州(兵庫県)から近江五千石の転封が決まった。これについて、山本氏は「東海地方において織田信雄と徳川家康との同盟が成立したため(略)秀吉は、畿内方面周辺をかためる必要があった。そのため攻略の一環として一豊を起用し、かつて秀吉が領していた長浜の地に封ずるにいたった」と述べている。

 そして、一豊は各地へ転戦していくなかで、天正十三年閏八月に、三度長浜に帰り、近江北二万石と一万石の代官地を支配するまでになっている。近江は、一豊にとって出世の拠点となっている。

高知城のそばに威風堂々と建つ山内一豊の銅像。

●高知城のそばに威風堂々と建つ
山内一豊の銅像。

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