土佐史研究家 広谷喜十郎 

318 勤王家・間崎滄浪(まさきそうろう) -高知市広報「あかるいまち」2011年5月号より-

 高知市にある映画館・愛宕劇場から東へすぐの道路沿いに、勤王志士として有名な「間崎滄浪先生邸跡」の碑が建っている。

 平尾道雄著『間崎滄浪』(保育社)によると、「その好学ぶりは三歳にして字を識り、四歳にして孝経を誦し、六歳にして四書五経の句読を学び、七歳にして詩文を能くした」という秀才であり、細川潤次郎・岩崎馬之助と共に、土佐の「三奇童」と称された。

 その後、滄浪は岡本寧浦(ねいほ)の学塾に入る。やがて、江戸へ出て安積艮斎(あさかごんさい)の塾で塾頭になるほど、その学才ぶりは評価されるまでになった。

 江戸では、「剛骨をもって知られた幕府の士山岡鉄太郎、学才ゆたかな(略)清河八郎と親交を結び、清河八郎は滄浪を『土佐第一級の人物』と称しているほど」と評価を受ける。帰国後、彼は江ノ口で学塾を開き、「門人雲集、四方より会するもの数百人、講席膝を容るる能(あた)はざるに至る」との盛況ぶりであった。

 門人の中には、中岡慎太郎らがいた。中でも吉村虎太郎は、門下の逸材であった。

 その頃、滄浪は吉田東洋にも接近し、彼の少林塾で学んでいる。そして、無禄の浪人学者・滄浪が徒士格に登用され、高岡郡浦役人など、次いで文武下役を務めている。

 しかし、滄浪は藩庁の下役人生活では満足できず、文久元(一八六一)年八月、土佐勤王党が結成されると、すぐに参加した。勤王党の血盟書の四番目に、彼の名前が認められることから、滄浪は幹部的存在であったのだろう。

 同三年二月二日、土方久元と共に藩庁からの密事用のため京都で探索活動をする。しかし、前年の十二月に京都青蓮宮の令旨(りょうじ)を密かに受け、藩政改革をしようとしたことを山内容堂に知られてしまう。藩獄に投獄され、六月八日の夜半、平井収二郎、広瀬健太と共に切腹を命じられる。滄浪は二歳の娘を心配して、「守る人の有るか無きかは白露の置き別れにし撫子の花」との歌を詠じている。

 平尾道雄氏は『土佐・その風土と史話』の中で、「土佐勤王党随一の学者で熱腸の詩人(略)進歩的な海軍論者であったし、経済問題にも一家言をもった知識人として」と高く評価している。

勤王家・間崎滄浪邸跡の碑(北本町一丁目)

●勤王家・間崎滄浪邸跡の碑
(北本町一丁目)

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