土佐史研究家 広谷喜十郎 

313 平井加尾の活躍 -高知市広報「あかるいまち」2010年11月号より-

 平井加尾が坂本龍馬の初恋の人だといわれ、話題になっている。

 罫紙十枚に書き記された加尾の口述書とされる『涙痕録(るいこんろく)』がある。もちろん龍馬や兄の平井収二郎のことに触れている。ここでは、「窃(ひそ)かに同志を助けし一二の奇事」から彼女の行動を中心に紹介しておきたい。

 文久元(一八六一)年春、加尾は京都の三条家に仕えていた。その家に、池内蔵太(いけくらた)が訪ねて来た。家人は警戒して、すぐには会わせなかった。翌朝、再訪してきた内蔵太の「身ニハ襤褸(ぼろ)をまとひ、目にあてられぬ姿なり」を見て、加尾は驚いた。彼は江戸からの帰国の途中、盗難に遭い、窮余の末、大小の刀を売り、丸腰になってしまったのだという。

 そこで、彼女は秘蔵の懐剣と帰国に必要な路銀を貸し与えた。彼が前々から「尋常の書生」でない人物だと承知していたからである。またその後、龍馬の下で活躍している動向も口述している。

 同年の初夏、河野益野(こうのますや)(万寿弥)と広(弘)瀬健太(ひろせけんた)の両人が国元の同志に重大要件を連絡するために、昼夜、東海道を歩き続け、熱病にかかってしまった。京都の藩邸に来て「小幡某」に助けを求めた。「小幡某」とは、小畑美稲(おばたうましね)のことで、上町の北奉公人町出身の勤王志士。広瀬健太はその近くの井口村の出身である。また、河野益野は龍馬の家の近所に住んでいて、龍馬の脱藩の折には、城下町郊外の朝倉村まで見送るほどの親友であった。

 小畑は、両人をかくまう場所がなかなか見つからず困ってしまい、加尾に相談する。

 彼女は召使いに言い含め、邸内の能舞台の片隅に夜具を運ばせ、手厚い看護をさせた。益野は熱が下がり始めると、彼女の制止も聞かず、すぐに帰国の途についた。そして、時期を逸することなく、無事に大役の務めを果たした。

 実は、同年八月に土佐勤王党が結成されている。二人の行動は、それに合わせての行動だったと思われる。

 なお、翌年十月に広瀬健太は三条実美(さんじょうさねとみ)らに随行して江戸へ行っているが、貧乏な彼の衣服があまりにも見苦しいので、加尾が新しい羽織を縫い上げ、贈っている。

 当時、京都に加尾ありと、強く印象づけていたといえる。

平井加尾の兄・収二郎誕生地の碑(旭地区)

●平井加尾の兄・収二郎
誕生地の碑(旭地区)  

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