土佐史研究家 広谷喜十郎 

311 龍馬と甲藤馬太郎 -高知市広報「あかるいまち」2010年9月号より-

 平成二十一年十一月二十三日付の高知新聞に、「兄権平依頼、名工・左行秀の作、龍馬愛用?刀、県へ寄託、脱藩許す文書の写しも」という表題の記事が発表された。この刀や文書は、坂本龍馬の親友である、土佐郡鴨部村(現高知市)在住の甲藤馬太郎が所有していたものである。

 馬太郎は、剣術家として知られた人物で、天保九(一八三八)年十二月十五日生まれである。甲藤家は、祖父の代からの郷士であり、「大甲藤」と呼ばれていた。高知城郊外の西部方面では、一番の豪家であったといわれている。

 かつて、朝倉の荒倉山辺りには藩主の狩猟場があり、藩主がこの方面に来た折にはよく甲藤家で休憩されたので、同家では邸地の「たつみ」の方角に当たる場所に「御入り門」を構え、藩主を迎えていた。

 甲藤馬太郎は、幼少のころから剣術を好み、後に江戸へ出て有名な桃井春蔵の道場に入り、修業に打ち込む。龍馬も江戸の千葉定吉の道場で修業していたため、同郷の郷士という親しみから、本格的な交流が始まった。江戸で他藩の代表的な剣士との交流試合では、龍馬と馬太郎が藩を代表して参加した、という記録もある。

 帰省してからも、龍馬は甲藤家をよく訪れ、庭で剣術の稽古をしたと伝えられている。

 安政五(一八五八)年十一月、水戸藩士・住谷寅之助ら一行が西国遊説の途中、土佐と伊予の国境豊永郷にある立川番所まで来て、龍馬に面会を求めて来た。その際も、龍馬は馬太郎と川久保為助を引き連れて会いに行っている。

 馬太郎は、龍馬とは剣術を通じて知り合い親しくなり、その後も剣一筋で生きていたとみえる。

 文久二(一八六二)年八月十八日に、藩の御雇い身分となり、藩校・致道館教授となる。彼は両刀使いの名手で、城下に住む上級武士の子弟に剣術を教えていた。

 ある時、誰もが容易に捕まえることができなかった盗賊を一刀の下に斬り伏せ、藩主から賞詞と三重の金杯を下付された。

 その馬太郎は、いつも龍馬の事が気になっていたとみえる。それを証拠付けるように、藩庁が龍馬あてに交付した脱藩赦免状の写しを彼は大切に保存していた。

甲藤馬太郎が所有していた龍馬の脱藩を許す藩庁文書の写し(県立坂本龍馬記念館提供)

●甲藤馬太郎が所有していた龍馬の
脱藩を許す藩庁文書の写し
(県立坂本龍馬記念館提供)  

▲このページの先頭へ
Kochi city