土佐史研究家 広谷喜十郎 

308 ジョン万・小龍・龍馬 -高知市広報「あかるいまち」2010年6月号より-

 高知市民図書館刊行の『漂巽紀略』の翻刻・注解をした宇高随生(うだかずいせい)氏は、ジョン万次郎と河田小龍が寝食を共にするうちに、互いに敬愛と友情が生まれ、小龍は人民を主体とするアメリカの在り方や自由に暮らす社会の姿に心を込めて文章化していると指摘している。

 坂本龍馬は安政二(一八五五)年、小龍に出会う。そこで『漂巽紀略』に描かれた海外の動きを直接生々しく聞き、大きな影響を受けた。小龍は熱く交流したこの時の状況を、明治期にまとめた回顧談『藤陰略話』に記述している。また、龍馬の家の近所に住み、後に亀山社中や海援隊士に参加した近藤長次郎や新宮馬之助らも小龍の門下生になっている。

 他方、その後の万次郎は江戸幕府に召し抱えられている。そして、航海・測量術などに関する著書も翻訳し、『英米対話捷徑』という英会話の本も刊行し、福沢諭吉や新島襄らにも大きな影響を与えた。明治二(一八六九)年、東大の前身である開成学校の二等教授に任命され、翌年には中博士(教授)に昇進している。

 そのころ、万次郎はけちであるとの噂がたったと、中濱博氏が『中濱万次郎』(冨士房インターナショナル)の中で紹介している。彼が料亭に行ったら必ず残り物を折り詰めにしてもらい、持ち帰ったからである。ある時、料亭の仲居が見ていると、近所の橋の下に住んでいる人々にそれを分かち与えていたという。

 明治三年、ヨーロッパへ出張する折、政府の役人が万次郎に「政府の代表として行く者が(略)そのような者へのあわれみはご無用」と申し入れをした。彼は永代橋に群がる人々について、「何のまちがいであんな運命になったのだろう。私は彼らをあわれむのではなく、本来人間は皆同じなのに、そのような運命になったという人生の無情を悲しむのだ」と役人に言い聞かせている。

 彼はまた、日本の洋画界の先駆者で、『鮭』を描いて活躍した高橋由一とも付き合いがあった。明治初期に由一が「絵も売れず衣食にも窮する状態であったので(略)大いに同氏を後援して、自分で知人たちに事情を説き回り、救助金を募った」という心優しい話も伝えられている。

はりまや橋観光バスターミナル近くの河田小龍生誕地の碑(はりまや町)

●はりまや橋観光バスターミナル近くの
河田小龍生誕地の碑(はりまや町)  

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