土佐史研究家 広谷喜十郎 

303 開成館と弥太郎 -高知市広報「あかるいまち」2009年12月号より-

 安政六(一八五九)年に長崎へ出発した岩崎弥太郎は、その途中で他藩の有名人と交流したり、他国の事情などを視察している。

 しかし、長崎では彼の漢学の才能だけでは通用せず、大きなカルチャーショックを受けた。それは彼にとって苦悩の連続であり、その後の生き方に影響を与えた生みの苦しみでもあった。さらに帰国後に、何かと目を掛けてくれていた吉田東洋が暗殺された。文久二(一八六二)年、土佐勤王党による出来事であった。弥太郎はこれにより、安芸郡井ノ口村の実家に帰り、失意の生活を送ることになった。

 その後、土佐藩政に再び登場した山内容堂は、慶応二(一八六六)年に東洋の遺策を継いだ後藤象二郎を起用し、開成館を創設させた。開成館には、洋式汽船購入に伴い蒸気学や航海学の西洋知識を導入する機関や、国産品を統制する機関等を置いた。殖産興業政策を展開して積極的に貿易を行い、富国強兵を図ろうとしたのである。

 弥太郎は、開成館の開設直後の二月十六日から三月二十七日までのわずかな期間、貨殖局下役として勤めている。辞職の理由は分からないが、重箱の隅をつつくような仕事に嫌気が差したともいわれている。

 翌年の三月九日のこと、弥太郎は弟の弥之助を藩校・致道館に入学させるために高知城下を訪れた際、藩の重役・福岡孝たか弟ちか宅を訪問した。孝弟は弥太郎に、明日から長崎に行くことになっているから一緒に来いと命令した。

 孝弟は、後藤象二郎と同じく東洋が開いた少林塾の塾生であった。恐らく、象二郎から何かの折には、弥太郎を登用するようにとの話があったのであろうと、『岩崎弥太郎伝(上)』の著者は推測している。それは、後の弥太郎の動きを見れば、かつての少林塾同門の間で、弥太郎のことが何かと話題になっていた様子が容易に理解できる。

 孝弟の長崎行きの目的の一つは、坂本龍馬の海援隊と中岡慎太郎の陸援隊の結成にあった。前年七月から長崎入りしていた参政・後藤象二郎の放漫経営により、長崎出張所は財政的危機状態であったことから、弥太郎が出張所再建のための主任となったわけである。ここで弥太郎は、坂本龍馬と劇的な対面をするのである。

開成館跡の東九反田公園(九反田)

●開成館跡の東九反田公園(九反田)  

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