土佐史研究家 広谷喜十郎

290 鯨油の防虫効用-高知市広報「あかるいまち」2008年10月号より-

 九十九洋という異名をもつ土佐湾は、昔から鯨が回遊してくることで知られている。

 江戸時代中期になると、室戸方面では紀州から網取り法を導入し、津呂組と浮津組に別れて鯨取りが盛んに行われていた。天保八(一八三七)年には、捕獲数が千頭になったので、浮津組の宮地家では鯨の霊を供養するために大位牌を作り、地元の中道寺に寄進している。

 「鯨一頭捕獲すれば七浦賑わう」といわれているように、鯨肉は食用として大坂市場へ送り、油は灯火用、骨は細工用として利用価値があった。また、骨粉は肥料として九州方面へ移出していたという。

 『山内氏時代史初稿』の享保十七(一七三二)年の条には、麦作が大きな被害を受けたとある。秋には米作もウンカの大発生により壊滅的な被害を受けて大飢饉が起こったと伝えている。翌年になると、事態は深刻になり、『南路志』には「享保十八年癸丑、早春より天下一統之困窮百姓、間人及難儀、長浜村へ御救己屋を建、毎日数百人之小屋入、郷浦死人多し」「長浜御救家、二月上旬、高三千六百人計、幡多中村御救家、同月一万二千人計ト云」などとある。当時の土佐藩人口は約四十万余人であるが、『谷氏年代記』では六万人の困窮者が藩の御救小屋入りし、死者も数多くいたというのであるから最悪の飢饉状態だったといえる。

 この時期には、農業技術の向上を図ったり、救荒作物の栽培を奨励したりしている。中でも藩庁役人の杉本庄兵衛が享保十七年にまとめた農業書『冨貴宝蔵記』は、農作業を行うためのさまざまな工夫が述べられており極めて注目される。ウンカ駆除については鯨油を水田に注油すべきだと強調している。調べてみると、ウンカ駆除に鯨油を利用したのは、全国的にみても杉本庄兵衛が最も早い時期であったようである。しかし残念なことに、ウンカ発生による大飢饉の前年に鯨油を使ったウンカ駆除について藩内に通知したにもかかわらず、周知徹底が図られなかったのである。

 杉本がまとめたこの方法は、その後の農業書にも記載され、農業生産が一段と進むことになる。

漁師が子どもへのみやげに作ったのが始まりといわれる鯨車(撮影協力:土佐民芸社)

●漁師が子どもへのみやげに作ったのが始まりといわれる鯨車
(撮影協力:土佐民芸社)


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