土佐史研究家 広谷喜十郎

288 春野の荒倉神社(二)-高知市広報「あかるいまち」2008年8月号より-

 荒倉神社には、狩猟の神である諏訪大明神が合祀(し)されている。

 『南路志』によると、荒倉神社の諏訪大明神に関する棟札に、天文九(一五四〇)年、永禄二(一五五八)年、天正二(一五七三)年に地元の豪族の名前が銘記されている。また、まじないに用いられたり、信仰心を表すものとして奉納された「鹿角五十六」が収蔵されているともある。このことから、諏訪大明神がかなり昔からあつく信仰されていたことが理解できる。

 さらに、『神社志』に「明暦四年山内氏始テ荒倉山ニ猟シ社地ニテ獲物宰シ之ヲ煮大ニ衆ニ賜リ宴ヲ終リ帰城ス其夜忽チ社殿炎上神器残ラズ焼失ス之ニ因テ社山内氏依リ今ニ至迄官営ニ相成」とあるように、藩主山内家もまた、明暦四(一六五八)年以降この神社を直営にしてあつく信仰していた。

 荒倉山は藩指定の禁猟区で、すなわち「鉄砲御法度場」であった。延宝二(一六七四)年の藩当局の布告を見てみると、「鶉坂峯より西孕峯限北は停止之」とある。「鶉坂峯」というのは、現在の荒倉峠のことである。禁猟区以外でも、鶴、鴻(こう)、鷹(たか)、青鷺(あおさぎ)、大鷲(おおわし)は禁鳥として捕獲を禁止されていた。荒倉山一帯は藩主直々の御狩場であったため、特に厳重に監視されていたのである。違反者の監視は、鳥見方や村々の庄屋が担当した。朝倉の針木地区から荒倉山までの道のりには、途中に藩主が腰掛けたという岩が現存している。

 諏訪信仰について、いくつかの文献を読んでいくと、諏訪大明神は狩猟の神としてだけでなく、中世には軍神として武家の間であつく信仰され、さらには鍛冶神の信仰とも絡み合っていく事例が見受けられる。

 南国市廿枝(はたえだ)にある祈念神社は、戦国武将・長宗我部元親が信仰していた神社として知られているが、「長宗我部元親の時、信州諏訪明神を勧請し」(『高知県神社誌』)とある。このことから、荒倉神社に祀(まつ)られている諏訪大明神も、軍神的性格を持っていた時期があり、そのために戦国武将である吉良氏や本山氏らによってあつく信仰されていたと考えられる。

藩主山内家によって直営された荒倉神社

●藩主山内家によって直営された荒倉神社


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