土佐史研究家 広谷喜十郎

286 土佐のかつお節-高知市広報「あかるいまち」2008年6月号より-

 平安時代の制度等を記した『延喜式』には、土佐から中央政府に納入していたものとして「堅魚(かつお)」が記載されている。なかでも堅魚煎汁(いろり)はカツオの煮汁が飴状になるまで煮詰めたもので、当時は最高の調味料として珍重されていた。

 戦国時代になると、武士の間ではかつお節が戦陣での携帯用保存食として利用されるようになる。また、「勝男武士」との当て字も使われるようになり、戦いの門出などの引出物とするのが例となっていく。

 江戸時代には、慶長十八(一六一三)年九月にかつお節千本を土佐藩から徳川家康に献上するなど、土佐の名産として大いに利用された。

 近世中期に、土佐沖でのカツオ漁が本格的に展開されるようになる。土佐のかつお節は、品質の良さで、それまでの紀州節を抜いて大坂市場で最高位に位置付けられている。

 文政五(一八二二)年の『諸国鰹節番附表』では、全国の産地百二十二カ所の比較で、最高位の大関が清水節、関脇は宇佐節と御崎節、小結は福島節と須崎節、前頭筆頭に御畳瀬節などとなっている。土佐の産地十七カ所すべてが上位にあることや、行司役と世話役の任に三カ所の産地が当たっていることは注目に値する。

 文政三(一八二〇)年、高知城下の魚問屋である辰巳屋幸右衛門がかつお節二千百本を銀一貫五百三十目で須崎浦の吉原貞蔵より買い付け、遠く江戸市場まで移出した記録がある。先述の番付表で上位にあり、全国的に知られるようになった御畳瀬節も江戸や大坂方面に送り出されていたことは容易に想像できる。

 このように、土佐ではかつお節などを中心にして江戸や大坂市場への移出が盛んにおこなわれるようになる。「浦戸、種崎に数艘の廻船、高知に桜屋、銭屋の大船あり、孕門以内帆檣林立瞥見して高知商業の活発なるを知らしめたり」(『寛郷集』)という状態になり、魚棚(うおのたな)などでは数多くの新興商人が輩出している。

 幕末の土佐ではかつお節の改良がさらに進み、焙乾(最高十二番火)、日乾、カビ付(最高五番カビ)などの工程を三〜四カ月かけて行い、十六〜十七%程に凝縮させた、非常に堅い「本枯節」が造りだされるようになった。

土佐國職人絵歌合 節切りの図(高知市民図書館蔵)

●土佐國職人絵歌合 節切りの図
(高知市民図書館蔵)


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