土佐史研究家 広谷喜十郎

285 石灰と土佐(二)-高知市広報「あかるいまち」2008年5月号より-

 文化年間(一八〇四〜一七年)に、阿波の徳右衛門が四国遍路の途中で下田村(南国市)で行き倒れとなったが、地元民から手厚い看護を受け回復することができた。

 当地の良質の石灰石に目を付けた徳右衛門は、お礼のためにと、阿波方式の石灰焼きの方法を教えたという。おかげで下田村の石灰製造技術は飛躍的な進歩を遂げ、生産高も増加した。しかし、阿波ヘ帰国した徳右衛門は、国の秘法を他国に教えたことでふるさとを追われ、再び放浪の旅に出た。

 『羽根村史』によると、徳右衛門は安芸郡羽根浦(室戸市)に来て、石灰の製法を地元民に教えながら細々とした生活を送り、失意のうちに死亡したといわれている。この折、羽根の柳屋金十郎の世話になったので、手代の慶蔵にもその礼として石灰の製法を教えている。柳屋金十郎はのちに慶蔵とともに下田ヘ行き、石灰の製造を始めた。

 文化十三(一八一五)年に柳屋と万屋助八が組合を作り、共同して石灰業を営むようになった。

 この石灰業に目を向けたのが、高知城下の新興商人として台頭してきた、富商の桜屋(入交家)である。文政二(一八一九)年、万屋と柳屋の株を譲り受けた桜屋太三右衛門は、介良村(高知市)で藩庁から土地の提供を受け、納屋を増築している。さらに、幕末になると、土佐の石灰業を支配してきた美濃屋と大和屋の株を譲り受け、藩の御用を引き受けて、大いに繁栄していく。

 平尾道雄氏は『土佐藩工業経済史』のなかで、「稲作肥料として石灰利用を土佐に普及させたのも桜屋の功績である」と述べ、桜屋の発展の秘密を紹介している。

 文化十四(一八一七)年に桜屋太三右衛門は、山口の防州産の石灰が稲作の肥料として阿波や讃岐で使用されていることを聞き、土佐国内でもこれを奨励した。それがたちまちのうちに普及し、生産高も急速に伸びた。幕末には、一年に約七十万俵も石灰製造が行われ、土佐の重要な産物となる。

 この時期になると、土佐では稲作の二期作が一般化するが、それには、桜屋による石灰の品質向上の努力と、生産量の増加の裏付けがあった。

稲生橋(南国市)北詰にある徳右衛門の碑

●稲生橋(南国市)北詰にある徳右衛門の碑


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