土佐史研究家 広谷喜十郎

282 福岡孝弟と五箇条御誓文-高知市広報「あかるいまち」2008年2月号より-

 高知地方裁判所西角から南に入った歩道上に「福岡孝弟誕生地」の碑が建立されている。その説明文には、「通称勝次維新の進歩的で偉大な政治家で大政奉還に尽力五箇条御誓文は孝弟が由利公正木戸孝允と協力した文案である文部卿となり枢密院顧問官議定官となる」と、刻記されている。

 孝弟は、高知城下西弘小路の土佐藩士・福岡家の二男に生まれた。兄の精馬は身体虚弱のため、家督を孝弟に継がせて、自身は学者となった。家塾を開き、子弟の教育に専念し、自由民権家となる。片岡健吉らを育成している。

 孝弟は、吉田東洋が城下郊外の長浜に追放中少林塾を設けた折、後藤象二郎らと門人になり、大きな影響を受けた。象二郎とともに東洋門下の秀才といわれていた。

 後に東洋の藩政改革を支え、安政七年(一八六〇年)に大監察となる。文久元年(一八六一年)土佐勤王党
が結成された折に、当初は「書生論」だとして相手にしなかった。

 慶応二年(一八六五年)に象二郎とともに開成館開設に尽力し、同年十一月十五日には土佐藩を代表して上京し薩摩の西郷隆盛ら要人と度々会談を行った。このころになると、孝弟の立場に大きな変化が生じ、公議政体論に理解を示すようになっている。

 象二郎や坂本龍馬の大政奉還の根回しを受けて、同三年十月三日に江戸幕府へ山内容堂の建白書と、重臣が連署した八項目からなる副書を提出している。それには、「我が皇国の制度・法則は一切万機京都の議政所より出ずべし」、「議政所は上下を分けて、議事者は上公卿より下陪臣・庶民に至るまで、公明純良の士を選挙すべし」と、議会制度を採用すべきだと具体的な提案をしている。

 この取りまとめは、孝弟が中心となって行ったといわれている。この考え方は、明治新政府の大号令である「五箇条の御誓文」の草案づくりに参加した孝弟に強くつながっていることは言うまでもない。

 同年六月十五日には、すでに龍馬が象二郎らと「船中八策」を発表している。大政奉還後の人材を選んだ「新官制議定書」が十月十六日にまとめられ、十一月には龍馬が「新政府綱領八策」をまとめている。

「福岡孝弟誕生地」の碑(升形)


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