土佐史研究家 広谷喜十郎

281 野中兼山と春野-高知市広報「あかるいまち」2007年12月号より-

 江戸時代初頭、仁淀川下流は東の吾川郡、西の高岡郡の間を貫流している大河で、河岸に自然堤防が広がっていた。流域は林地、採草地、畑地として利用されていたが、多くは未開拓の荒野であった。

 野中兼山の時代になると、慶安元年(一六四八年)に東岸を開拓するために八田堰(ぜき)を、万治二年(一六五九年)に西岸を開拓するために鎌田堰の築造を開始した。

 仁淀川の本流の中央部をせき止めた八田堰は石堰の長さ四百六十メートル、幅五十メートルという大きなもので、物部川の山田堰とともに「兼山の二大堰」といわれる。

 この川の流れは激しく堰はしばしば崩壊したため、古老の意見を取り入れ一筋の長い縄を流して水勢に逆らわない弧を張り、それに沿って築造した。すなわち「長縄流し」の方式で堰を築いたといわれる。

 兼山は八田堰から弘岡井筋への大用水路を設け、吾南平野を開拓する計画を立てたが、いの町八田と春野町弘岡上との境で非常に堅い岩盤にぶつかってしまった。この堅い岩盤を掘り抜くために、農家からイモのズイキを大量に徴収して岩盤の上で燃やし、岩を割れやすくしながら、金づちとノミで少しずつ割り取る工法をとっている。これが、この工事最大の難関の「行当(ゆきとう)の切抜き」で、高さ十余メートル、幅十メートル、長さ四十メートルで、約五年間もかかり苦労の末に掘り抜いたという。また春野町東諸木と高知市長浜の境では「唐音(からと)の切抜き」工事も行っている。この切り抜きは甲殿川の河口に土砂がたびたび堆積して水が氾濫するため、西戸原辺りから長浜へ水路を変更するというもので、高さ三十メートル、幅十四メートル、長さ百二十メートルの大変な難工事であったと伝えられている。この結果、後に土佐のデンマークといわれる八百六十二町歩の良田を開拓することができたのである。

 この吾南平野を流れる井筋は、城下町へ通じる物産の輸送路として大きな役割を果たしていた。承応元年(一六五二年)に森山の地に新川町が創設されている。仁淀川から新川町までの井筋は比較的高いところから通水していたので、用水の流れの差を調整するために「おとし」が設けられ、幅は十五メートルで、下段部分をかつては大松板で敷き詰めたものであった。このおとしは新川のおとしと呼ばれ、現在も保存されている。北側には開拓の指揮をとった野中兼山を祭った春野神社があり、近くには兼山時代の古井戸もあった。

 新川町に住みついた水運関係者は、高知城下町商人と同様の特権を得て商業活動にいそしむようになった。上流から来た川舟や筏(いかだ)は町の水門までしか運航は認められていなかった。そこから長浜までの運航は、町のひらだ舟に任されていた。また、町のひらだ舟は上流への運航を自由にできる特権を保障されていた。この水路を運行できるひらだ舟は、九十三艘(そう)に限られていた。

 このようにして、新川川を通じて上流の林産物が城下町に運ばれ、城下町の物資や水産物などは逆に、上流方面に運送されるようになった。江戸時代中期には、町の家数が六十余戸だったものが、幕末になると百八十余戸となり、三倍もの増加ぶりを示している。

 江戸時代後期になると、城下町の材木町を保護するために、新川町への締め付けが一段と厳しくなり、文政九年(一八二六年)城下町奉行の圧力によって、城下町での林産物の売買が禁止された。これに違反した新川町小川屋礼蔵ら五人が処罰されるという事件にまで発展した。天保元年(一八三〇年)三月に新川町から郡奉行へ訴えが出され、郡奉行配下の新川町と町奉行配下の材木町との対立に拍車がかかった。藩庁は両者の主張を聞き、四月になって十年間に限り、新川町民の代表二人を材木町に定住させ、林産物売買を許可するという裁定をしている。この後も幕末にかけて、材木町を相手に繰り返し期限延期の運動を起こし、新川町の商業権を死守するのである。


 平成20年1月1日、高知市は春野町と合併します。今回は合併を記念し、高知市と春野町をつなぐ野中兼山の遺構について執筆していただきました。

野中兼山と春野


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