土佐史研究家 広谷喜十郎

280 西郷・木戸・板垣会見場跡-高知市広報「あかるいまち」2007年11月号より-

 東九反田公園内に「開成館跡西郷木戸板垣三傑会合之地」と刻記された記念碑がある。

 幕末に殖産興業等を目的の機関として開成館が建てられた。明治維新後の新しい動向を受け、藩庁の中に開成司を配置したため、明治三年正月二十四日に開成館は外来客を接待する意味で「寅賓館(いんひんかん)」と名称が改められた。

 明治二年の版籍奉還などの動きに見られるように、明治新政府は中央に権力を集中させるために、薩摩と長州に働き掛けを行った。勅使・岩倉具視は明治三年十二月二十三日に鹿児島へ行き、勅書を島津氏に手渡した。また、毛利氏には、翌年の正月八日に山口へ行き勅書を与えている。

 その中で、勅使に同行していた薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の木戸孝允は相談して、高知を訪れることを決定した。

 正月十六日、長州の雲揚艦で三人のほかに山口藩権大参事・杉孫七郎、薩摩藩士・池上四郎らとともに、三田尻港を出帆し、十七日に浦戸に入港した。西郷は高知城下の豪商・浅井家に、大久保は湊屋横山家にそれぞれ宿泊している。

 十八日に土佐側の大参事・板垣退助が宿泊先を訪問したことが日記に記されている。

 平尾道雄氏の『土佐百年史話』(浪速社)によると、「同氏(木戸)は三年前の知人にして、昨年末をもっとも相往来、大いに時勢を察し皇国前進の事に着眼、藩政改革等もまた見るべきこと多し」とある。また、「今日のこと余の説を陳じ問はずして直ちに相諾」と、板垣は木戸の意見にすぐに同調している。

 寅賓館での正式の会談は、土佐側の権大参事・福岡孝弟や少数参事らを交えて行われ、高知藩は明治政府への親兵派遣を承諾した。翌日には、高知藩知事の正式の許可を受けて、西郷らは二十一日に高知を離れている。

 この動きは、明治二年の版籍奉還以来の重大な進行を意味するものであった。そして、明治四年七月十四日に発布された廃藩置県令につながっていくのである。

 このような日本の近代化の流れの中で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の木戸孝允、土佐の板垣退助らの果たした歴史的役割の大きさを物語る舞台が寅賓館であった。

東九反田公園にある記念碑

●東九反田公園にある記念碑


トップページへあかるいまちトップへ歴史散歩トップへ

All Rights Reserved. Copyright Kochi-city.