土佐史研究家 広谷喜十郎

277 板垣退助と相撲-高知市広報「あかるいまち」2007年8月号より-

 近藤勝著『土佐と相撲』や、吉村速夫著『土佐の相撲』には、板垣退助が幼いころから相撲好きであった逸話や相撲界の振興に努めたことが詳述されている。

 近藤氏によると、板垣は素人力士もプロ力士もかわいがっていた。明治初年ごろには、板垣邸のある潮江地区の新田にたくさんの力士が集ったので、「世人はこれを新田の相撲部屋と呼び、相撲取りも二十名をこえる大所帯であった(略)この新田の相撲部屋から、維新の動乱によって一時的に衰退した土佐の相撲が復活したということができる」と述べている。

 さらに、土佐出身の幕内力士の多くが板垣の世話になって、日本の相撲界でも大活躍するようになった。土佐の力士だけではなく、有名な横綱・太刀山も渋っていたのを板垣が説得して入門させることになったといわれる。このような事情を踏まえて、近藤氏は「土佐の相撲の、或は日本の相撲の大恩人である」と、高く評価している。

 明治四十二年に完成した国技館の名称について、小島貞二著『大相撲裏面史』(千人社)によると、尚武館や相撲館などの名前が出て、議論百出でなかなか決まらなかった。尾車親方が「国技館」を提案、委員長・板垣が賛成し、ようやく決まったという。

 なお、半藤一利著『大相撲こてんごてん』によると、尾車親方が文人・江見水蔭の「開館披露文」の中に、「そもそも角力は日本の国技、歴代すもうの朝廷これを奨励せられ、相撲盛会の盛事は尚武の気を養い来り」とあるのを目に留めたのがきっかけであると紹介している。

 大正十三年に建立された板垣の銅像の記念碑が高知城内に残されている。その碑文の中に「東京角力協会ノ援助アリ」とある。大正八年七月、板垣逝去の折、葬儀で柩(ひつぎ)を力士十六人が担ぎ、相撲界からも多数の参列者があったという。

 板垣は日本の相撲界発展のために大きな足跡を残したと言えるであろう。

 前述の近藤氏の著書に、明治四十三年に「板垣伯歓迎相撲」、昭和十六年ごろに「板垣伯遭難記念相撲大会」が挙行されたことが紹介されているように、板垣と土佐相撲界との関係が長く続いたことを物語っている。

板垣退助邸跡に立つ記念碑(萩町二丁目)
●板垣退助邸跡に立つ記念碑
(萩町二丁目)

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