土佐史研究家 広谷喜十郎

272 武田家と土佐-高知市広報「あかるいまち」2007年3月号より-

 武田家と土佐との結び付きの歴史は、鎌倉時代にまでさかのぼる。

 『高知県百科事典』の「香宗我部氏」の条に、「一一九三(建久四)年、中原秋家は香美郡宗我・深淵郷の地頭に任ぜられたが、地頭職は秋家が後見した主家の一条忠頼の子中原秋通に移」ったとある。

 秋通は甲斐源氏の後裔・武田信義の子孫に当たる人物で、香宗我部氏の初代になる。

 以前、香南市野市町香宗にある香宗我部氏関係の遺跡から、「武田菱」の紋様入りの瓦が出土したことを聞いている。

 戦前、三菱関係の会社で活躍した武田秀雄の伝記書によると、「家系は香宗我部を宗家とし、武田、喜田、中山等の数家に分れたり」と述べ、地元の小学校の校旗に武田菱が使用されていたので、大正五年(一九一六年)に新しい校旗を製作して寄付したという。後代になっても、武田家意識が根強く生きていたといえる。

 自由民権運動家として名高い馬場辰猪の系譜を、山内家臣団の記録である『御侍中先祖書系図牒』でみると、先祖は「甲州武田家ニ仕馬場美濃守也平兵衛信義者武田家滅却之後落浪御当国江罷越」とある。これまた武田家の流れをくむ家柄である。馬場美濃守信春は武田信玄から「鬼美濃の武名にあやかれ」といわれたほどの武将であった。辰猪は『自伝』の中で、「勇士としての事蹟を日本の歴史にのこした祖先の物語に激励されて、そういう境遇の下にいなかったならば、実業家とか科学者とかになったかもしれないその若者は、抵抗しがたく政治の領域へと導かれて、自分の国のために何事かをなしたいとの志望をもつに至った」と述べている。

 後年、彼がアメリカへ行き甲冑姿で講演していたのも、猛将・美濃守の流れをくむという意識からだったと思われる。

 『岩崎弥太郎伝』(伝記編纂会)の中に、「甲斐源氏の末裔」の一節がある。そこには、岩崎家の遠祖が武田氏であって、その子孫・岩崎信寛の時、土佐の安芸へ来て安芸忠国に仕えたと記されている。岩崎家の紋様は「三階菱」を使用しているが、この家紋と山内家の家紋「三つ葉柏」の組み合わせにより、明治維新後、現在の三菱マークが考案されたといわれている。

升形にある馬場辰猪誕生地の碑
●升形にある馬場辰猪誕生地の碑

トップページへあかるいまちトップへ歴史散歩トップへ

All Rights Reserved. Copyright Kochi-city.