土佐史研究家 広谷喜十郎

271 武田信玄と板垣退助(二)-高知市広報「あかるいまち」2007年2月号より-

 板垣退助は、戊辰戦役で甲府を占領した折に、「乾」から「板垣」姓に改めた。部下の大石弥太郎や美正貫一郎らにも命令を下し、退助が武田家ゆかりの武将であること、旧武田家は徳川家から迫害されており、勤王のためにも今こそ立ち上がるべきチャンスであると、説得工作させた。

 甲府は、武田信玄びいきが満ちあふれていた土地柄であり、江戸約三百年を経ても信玄公が根強く尊敬されていた。退助の呼び掛けは、たちまち効果を発揮するのであった。

 また、甲府の代官であった中山精一郎をそのまま町奉行に任命して甲府城下の警備に当たらせるなどの配慮をしたので、治安状態が極めて良かったといわれている。

 対する幕府側は、大久保剛と名乗る元新撰組隊長・近藤勇を大将とした甲陽鎮撫隊を組織させた。甲府城は、すでに西軍(板垣側)に支配されていたので、勝沼の地で対決することになった。

 だが、鉄砲の数で勝る西軍に圧倒された幕府軍は後退せざるを得なかった。

 退助の采配ぶりの良さや、土佐軍に味方した甲州人で組織された断金隊や護国隊の活躍ぶりも見逃すことはできない。さらに、土佐軍が関東地方へ進出した折も、武州の八王子方面にいた千人同心たちの中には、武田家の遺臣の流れをくむ者も多くいた。退助は、同じ武田家ゆかりの者であると宣伝したので西軍側につけることができたという。

 武人としての生き方をまとめたものに、明治四十三年の『武士道談』がある。

 それによると、戦国時代の武士は本来、自由人的な生き方をしていた。「名将武田信玄の歌に、人は城人は石垣人は掘という名句」を引用して、武士道的精神を踏まえながら、「我邦は立憲政治の樹立によりて人民の自由権利を確保し是において求心力と遠心力とは相調和し」た状態を心掛けるべきだと述べている。

 続けて、「母が予を戒めて云ふに喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬと(略)喧嘩に負けて帰れば母叱って直ぐに門に入れない成長すると又た仮りにも卑怯な挙動をして祖先の家名を汚してはならぬと教える」とも述べている。

「板垣退助誕生地」碑(本町二丁目高野寺門前)
●「板垣退助誕生地」碑
(本町二丁目高野寺門前)

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