土佐史研究家 広谷喜十郎

267 一豊と土佐茶(二)-高知市広報「あかるいまち」2006年9月号より-

 戦国乱世の中で、天下統一を狙った織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代に茶が大きな役割を果たしていたことは、歴史書や茶書をひもとくと、それらの事実が数多く述べられている。茶の湯が盛んになると、それに用いる茶碗の需要が増加して、全国各地に特産地が形成された。そして、諸国大名は競って「名品」といわれる茶碗を求めるようになっている。

 『山内家史料・一豊公紀』の慶長九年(一六〇四年)の条に、「始メテ江戸ニ参勤ス将軍家康至正坊ノ茶入ヲ賜フ」とある。徳川家康から直接に茶の湯の接待を受けて、至正(師匠)坊と名付けられている茶入まで頂戴している。

 『一豊公紀』の慶長七年(一六〇二年)二月二十五日の条によると、一豊は仕置役・福岡市右衛門と上野惣右衛門に命じて、土佐各地にある茶葉を摘み取る作配役を茶道に通じた僧侶でもある棒蔵主に命じる。そして、手抜かりのないようにしてもらいたいとの注意書を与えている。同日付けの他の文書では、土佐郡西之山、長岡郡黒滝・穴内、香美郡夜須・大忍・韮生・山田の茶生産地の庄屋や百姓にあて、蔵入(直轄地)の村だけではなく、給人知行地をも含めて茶を摘んで渡すべきだと厳命している。なお、採茶の特命を帯びた棒蔵主の身分について、平尾道雄氏が『土佐藩林業経済史』の中で、後年京都の宇治の茶師らが土佐へ来国している事実を踏まえ、「その大部が上方へ送られるものであることは(略)ほのかに推想せられる」と述べている。

 山本大氏も「摘み取られた茶は、大部分上方へ送られているが、これは商品として売り捌かれたのではあるまいか(略)一豊はかなり経済的な眼力をそなえていたといえよう」(『山内一豊』)と指摘している。

 慶長八年(一六〇三年)正月二十二日にも同じような文書を出している。毎年、棒蔵主によって採茶が行われていたようである。この文書の中で、採茶地域が吾川郡にまで広げられていることは、注目に値する。

 後年の記録ではあるが、藩主に献上したり、特別に高い価格で買い上げてもらえたりしたのは、香美郡韮生郷の大抜茶と吾川郡の名野川茶だけである。今、大抜茶の伝統をくむ家が一軒だけ、自家用に製造している。それを少しだけ分けていただき、その風味豊かな茶を楽しんでいる。

山内一豊の肖像画
●山内一豊の肖像画
(土佐山内家宝物資料館所蔵)

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