土佐史研究家 広谷喜十郎

265 一豊の江戸参勤-高知市広報「あかるいまち」2006年7月号より-
 山内一豊が土佐に入国して、初めて江戸への参勤を行ったのは、慶長九年(一六〇四年)のことである。『山内家史料・一豊公紀』の慶長九年の条に、「始メテ江戸ニ参勤ス、将軍家康至正坊ノ茶入ヲ賜フ」とある。この時、一豊は海路をたどり、甲浦経由の旅であったようである。

 『室戸市史』では、「土佐初代藩主山内一豊公が室津沖にて、にわかに風波が荒くなり、一豊公は神仏に無事を祈った。ところが船に突然異僧が現れ、船の楫(かじ)をとって無事港に入れた(略)それから、この地蔵を楫取地蔵というた」と書かれている。この不思議な話を伝えている寺院は、四国霊場二十五番札所・津照寺である。

 二代藩主・忠義も同じような経験をしたので、この寺をあつく保護したともいわれている。これらのことをふまえて、「空海作の秘仏・地蔵菩薩が津照寺開基のころから、火難、水(海)難除(よ)けの信仰を、のちに至るまであつめ続けてきたことを示すものといえよう」と述べている。

 一豊は、入国の折には甲浦から陸路を取ったのであるが、江戸への参勤の旅に、あえて海路を利用したのはなぜだろうか。

 慶長五年(一六〇〇年)には浦戸一揆があり、慶長八年(一六〇三年)八月に本山郷で滝山一揆が発生するなど、長宗我部旧家臣による激しい反乱が起きている。まだ政情不安定な状況にあったから、海路を利用したのではないか。

 また、一豊は入国直前の慶長五年十一月には、「船と水主を確保すべし」との掟書を布告する。慶長七年(一六〇二年)には種崎浦での回船や漁船の調査を行い、翌年には東灘方面の船頭・水主帳を作成している。このように、領主的海上輸送が整備されたので、海路を利用しての江戸への参勤の旅を行なったともいえる。

 海難除けの神社や寺院に興味を持って調べているが、藩主があつく信仰した寺院の一つに、秦地区三谷の観音さまがある。『類従土佐故事』などによると、三代藩主・忠豊が船で帰国の折、浦戸沖で海難除けの祈願をしたことにより、無事に帰港できたと伝えられている。

 

藩主が乗船した大御座船の図
●藩主が乗船した大御座船の図
(平尾文庫「温古筆剰三」市民図書館所蔵)


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