土佐史研究家 広谷喜十郎

264 一豊と五台山-高知市広報「あかるいまち」2006年6月号より-
 高知市東部にある五台山山頂に竹林寺が鎮座している。『南路志』の「五台山村」の条には、「開基行基菩薩中興弘法大師」とある。奈良時代に行基上人が開基し、平安時代の弘法大師(空海)が中興したという歴史的に極めて由緒のある寺院であるという。

 また、後に室町幕府・足利尊氏の政治顧問として活躍した夢窓疎石は、文保二年(一三一八年)に土佐へ来国し、五台山の山麓に吸江庵を設けて住みついている。室町時代には、足利幕府に手厚く保護され、海南の名刹として鳴り響いていた。また、夢窓は、草庵の眼前に広がる浦戸湾の風景を中国の西江に見立て「吸江」と名付け、十景を選び、この風景を楽しんでいた。

 さらに、土佐の守護代の細川氏や長宗我部氏も保護を続けた。そして、山内一豊の入国後、一豊の義子の湘南和尚を住職に迎え、再興させて吸江寺と改めたという。

 山本大著『山内一豊』(新人物往来社刊)の年表・天正十三年(一五八五年)十一月二十九日の条に、「長浜大地震、与禰死す(六歳)。この年の末、一豊夫妻禅宗に帰依す」とある。同じ禅宗の高名な吸江庵に、一豊は興味を示し、愛娘・与禰の霊の供養を湘南和尚に託したのであろうか。慶長六年(一六〇一年)六月十四日付けの文書によると、一豊は吸江寺の敷地を増加させて保護を加えている。

 山内一豊は、仏の山である五台山にある竹林寺にも目を向けている。この寺には、貞和二年(一三四六年)に足利直義が、応仁二年(一四六八年)には細川勝之が、慶長九年(一六〇四年)には山内一豊が、寺内での竹林伐採などを禁止する禁制文をしたためた木札を作成している。

 一豊にとっては、高知城の築城と城下町づくりに励行している折でもあり、これら工事の無事完成を祈願したのであろう。それに、一豊は竹林寺にもよく参詣に行き、住職の空鏡上人になにかと政治上の意見を求めていたという。

 これらの動きが、やがて、二代藩主忠義の依頼を受けた空鏡上人が慶長十五年(一六一〇年)に河中山を高智山(高知の名の始まり)と改称することにつながるのである。

山嶽社
●竹林寺の宝物館内にある一豊の制札(複製)

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