土佐史研究家 広谷喜十郎

263 土佐山の山嶽社-高知市広報「あかるいまち」2006年5月号より-
 江戸時代後期になると、塾や寺子屋の普及によって庶民文化の台頭が始まる。

『高知県医師会史』の中で「土佐医学史」をまとめてみたが、江戸時代後期ごろになると無医村がだんだん減ってきている。地域の医者たちは医療に精勤するとともに、暇を見つけて、学習塾を設け近隣の子弟を集めて学問を教えるようになっていた。

 『土佐山村史』によると、土佐山地区の西川集落に居住する医師和田波治と千秋の父子は「自宅を寺子屋にして部落の青少年を集め、和漢学、道徳礼儀を教え、勉強して家産の増殖を計ることを説いた」とある。医師である和田父子はまた、寺子屋の師匠としても活躍していた。

 『日本教育史資料』(巻九)に収録されている高知県関係の記録によると、当時の授業料というべき謝礼は「酒魚ヲ以テシ、謝儀ハ生徒ノ意ニ任ス」「定額無、年謝米六升」などとあるように、正業の余暇にボランティア的な仕事としてやっていたようである。

 明治時代初期における青少年教育の画期となったのは、自由民権運動の中で発生した立志社をはじめとする各地の無数の民権結社で、青少年たちの自発的な学習意欲が生まれ出たことによる。そうした動きの中で、地域の有識者が夜学会を開き、青少年たちは文明開化の新知識を学んだのである。

 博学の知識人として知られていた和田千秋に教えを受けた門下生の中から、民権家・高橋筒吉(初代土佐山村長)、中山亘兄弟ら数多くの人材を輩出している。やがて、和田先生の遺志を受け継ぎ、「珍々社」が結成される。これが後に「山嶽社(山嶽倶楽部)」と改められた。

 ここでは「学問、道徳、富力、腕力」というスローガンを掲げて勉学に励み、独自性のある地域の新気風をつくり出した。その一方、県下の各社と合同する各種の懇親会にも参加する。明治十五年(一八八二年)十一月十二日には、巻狩大懇親会を地区内の桧山で開催し、二千人の参加を得て大いに気勢を上げている。和田千秋の子で、『自由党史』編集者の和田三郎の生家は、この山嶽社の拠点であった。

 民権運動ゆかりのこの旧邸は、平成三年に復元されている。

 
山嶽社
●山嶽社の建物

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