土佐史研究家 広谷喜十郎

259 一豊の藩内巡視-高知市広報「あかるいまち」2005年12月号より-


 慶長六年(一六〇一年)一月に入国した山内一豊は『山内家史料・一豊公紀』の二月の条に「封内人民の逃匿セルモノヲ諭シテソノ本居ニ還住セシム」とあるように、奥山などに逃げ込んでいた長宗我部氏の旧家臣・村民・神官・僧侶らの還住策を積極的に行うとともに、四月には弟の山内康豊や百々越前、野中益継らの老臣を随行させて、国内の地形・風土・人情・物産などの視察に出掛けている。
                                                                  ●百々越前邸跡の碑百々越前邸跡の碑
 藩政後期の『南路志・闔国之部』の高岡郡土崎村の条に「土崎町諸役免許、昔津野何某へ被下置故御免町と云、津野何某は一豊公御巡回之節御道筋へ罷出」とあるように、土崎町は一豊より直接諸役を免除された御免町であった。

 中平秀則編『津野中平氏由来』によると、一豊は国内巡察の折、長宗我部元親の三男津野親忠の悲劇の始末を聞くために須崎において豪族津野氏の一族である中平清兵衛を召し出している。清兵衛は、津野家一族は当地に孝山寺という菩提寺を建立して親忠の霊を弔っていると答えている。

 清兵衛は一豊の幡多郡方面への視察に随行した。

 後日再び城へ召し出されて、一豊より仕官の意志の有無を糺された。彼は「先主への義理を含、仕官之儀御断申上」(『南路志』)と、親忠の霊を弔うために津野家一族が申し合わせているので、再び仕官しないと断っている。一豊はほかに何か望みはないかと下問した。そこで清兵衛は、土崎の地に町づくりをして、何かの折、藩の御用のための人足を派遣したいとの願いを出している。それに対して一豊は年貢および諸役免除の御墨付きを与え、彼を庄屋役に任命したという。

 一豊は、六月に弟の康豊に土佐西部の要所である中村で二万石を与えている。八月には佐川(一万石)に深尾重良を、宿毛(七千石)に山内可氏を、窪川(五千石)に山内一吉を、本山(千三百石)に山内一照を、安芸(千五百石)に五藤為重をそれぞれ配置し、入国後の国内の支配体制をつくり上げた。

 そして九月には、百々越前をして、大高坂山の地に縄張りをし、築城に着手したのである。

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