土佐史研究家 広谷喜十郎

252源希義と夜須七郎-高知市広報「あかるいまち」2005年5月号より-


 数年前、京都の石清水八幡宮を訪ねたことがある。だれもが中学校や高等学校の古典の授業で出合った、あの石清水八幡宮である。

                                                                     ●希義の墓所への登り口にある山内豊房の歌碑(介良乙)希義の墓所への登り口にある山内豊房の歌碑(介良乙)
 目的の一つは、明治十二年(一八七九年)にエジソンが発明した白熱電球に使用された「八幡の真竹」を見ることでもあった。また、貞観元年(八五九年)に建立された同神社の八幡神は、源氏の祖神として八幡太郎義家などがあつく信仰しており、同宮は土佐国夜須庄にも社領を持っていたので、訪ねてみたいとも思っていた。

 『高知県史・古代中世編』によると、夜須庄は平安時代末期に荘園化されて石清水八幡宮宝塔院領となった。土佐・長岡郡介良(高知市介良)に流されてきた源希義に、夜須七郎が心を寄せて活躍したことが理解できると指摘している。

 夜須七郎は、希義に対して、何かの折には応援に駆け付けるとの約束をひそかに交わしていたのである。

 希義は、寿永元年(一一八二年)に実兄の源頼朝が挙兵したことを知り、鎌倉へ行こうとして、長岡郡年越山(坂折山)で平家側の追手に捕まり殺害されてしまう。

 一方、夜須七郎は、希義を救援しようと野市の野々宮まで来ていた。このことを知ると手結まで引き返し、用意してあった船に乗って仏ヶ崎から紀州(和歌山県)めざして逃亡した。この七郎の行動について、『夜須町史』では「すでに手結に成長した水軍はその後の行宗(七郎)の活動を支える」との記述がある。

 七郎は、壇ノ浦の戦いで、周防国の住人・岩国二郎と同三郎らを生け捕りにするという軍功を挙げている。この合戦では、安芸太郎、次郎も平家側の猛将・平教経を相手に華々しく戦っている。

 平家側の支配下にあった土佐では、希義の遺骸をだれも埋葬しようとしなかったため、僧・琳猷上人が介良の地に墓を建立した。その後上人は遺髪を持参して、頼朝に報告した。頼朝は希義の「亡魂再来」(『吾妻鏡』)と賞し、寺の建立のための寺領を与えた。

 希義の墓所への登り口には、五代藩主・山内豊房公の詠じた「はかなしや同じ梢の花ながら咲かで朽ちにし跡のしるしは」との碑が建立されている。

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