土佐史研究家 広谷喜十郎

251坂本龍馬と越前福井-高知市広報「あかるいまち」2005年4月号より-


 坂本龍馬は、文久元年(一八六一年)の土佐勤王党結成に参加し、翌年三月に脱藩する。諸国を巡り閏八月には、江戸・千葉道場に到着。すぐに、土佐藩士・岡本健三郎と共に福井藩主・松平春嶽に面会している。

                                                                               ●松平春嶽(福井市立郷土歴史博物館所蔵)松平春嶽(福井市立郷土歴史博物館所蔵)
 幕閣の最高位の政事総裁職にある春嶽に、一介の脱藩浪士である龍馬が面談しているのである。春嶽は、手記で「天下の事情と形勢を陳述せり、勤皇の志感ずべき也」と、龍馬の意見をきちんと受け止めて、後の龍馬に大きな影響を与えた勝海舟と、福井藩の政治顧問・横井小楠への紹介状を手渡している。

 その後も機会あるごとに龍馬は、春嶽に会っている。文久三年(一八六三年)五月には、海舟の使者として越前福井に赴き、神戸の海軍塾の建設資金五千両を借用し、その後七月下旬にかけて積極的に福井藩に働きかけて交流を図っている。

 その海軍塾は、翌年十月に閉鎖された。行き先を失った龍馬らは、海舟の計らいで西郷隆盛を通じて薩摩藩の庇護を受け、長崎に行き、亀山社中を設けて海運業に乗り出すことになった。

 海舟は『氷川清話』の中で「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人みた。それが横井小楠と西郷南洲(隆盛)だ」と述べている。幕末に活躍する、最も重要な人物・海舟、小楠に加え、龍馬はもう一人の重要人物・西郷隆盛にまで結び付きの輪を広げている。

 後に龍馬が脱藩の罪を解かれ、土佐藩の別働隊ともいうべき海援隊をつくった折、福井藩からも六名の若者が参加している。彼らの多くは藩士の身分のままで積極的に参加しているのであるから、春嶽や藩の了解なしには入隊できなかったはずである。

 龍馬らの活躍で実現した大政奉還を受けて、小楠が春嶽にあてた建白書には、「公式御一席」の上院と「広く天下の人材を御挙用」の下院の設立を主張している。これは龍馬の「船中八策」の考え方と重なり合う。

 龍馬は、慶応三年(一八六七年)十月に新政府を組織するに当たり、春嶽、小楠、三岡八郎(由利公正)らの登用を想定している。

 同年十一月十五日に龍馬が暗殺されたことを知った春嶽は、「驚愕痛悼に堪へず」と嘆いている。

[トップページへ]


[もくじ]へ戻る

All Rights Reserved. Copyright Kochi-city.